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三輪茂雄著『機械の味・石臼の味』(クオリ刋、1976年)この本は絶版のため公表します)

                  NHKラジオ「科学千一夜」1976.5.20.放送内容

1. 臼と人とのかかわりあい
   臼を挽け挽け団子して食わしょ

      芋にかぶ菜を切りまぜて

臼を挽け挽け  

   団子して食わしょ

       臼を挽かねぱ

            またお粥

臼の軽さよ 相手のよさよ

  相手かわるな明日の夜も


 臼と人とのかかわりあいは、ついさいきんまで、切っても切れないものでした。そしてつらい労働でもありました。その単調さをまぎらせ、仕事のリズムをつくるためにうたわれたのが臼挽き唄です。

 だんご、うどん、素麺、蕎麦、豆腐、黄な粉、香煎、みんな臼からつくり出される庶民の食品でした。米のとれない地方ではひえ、麦や蕎麦、さらには稗などの雑穀を粉食する唯一の手段としての臼でもあったのです。

 おらが おかかは こねるがお上手

  打てたうどんの味のよさ

 「食」ばかりではない、「衣と住」の面でも、糊は重要な材料の位置を占めていました。着物ののりつけ、障子や襖(ふすま}を張りなおの糊、染物の糊、これらも「石日」で挽かれ、臼なしに人の生活は考えられませんでした。

 古い住居跡から、古びた臼片が出土することがあります。たいていの場合それは真二つに割れていますが、それは昔の人々が臼には魂があると考え、古くなってちびた石臼を、玄能(げんのう)で割ってすてたのです。道具にたいする心づかいがここにも表われ}ていて、現代人として考えさせられるものがあるではありませんか。天明や天保の大飢饅の記録に次のようなのがありました。「わらの根元五、六寸切りすて、二、三分ずつにきざみ、二、三日水にひたしおき、日に干してほうろくにて妙り、臼にて挽き、粉にしてふるいにかけ、その粉に麦、米、あわ、さつまいもなどあわせ、もち団子として食うべし……」古びた臼片がもしかしたらそんな歴史を秘めているのかも知れません。ところがその石臼も、いまでは人々から忘れ去られ、ときには無残にも庭石になっていることさえあります。私にはこの石臼たちが何かを現代人に語りかけているように思え、心ない人たちに憤りさえ覚えるのです。「石臼に象徴される生活文化の総体の崩壊」ふとそんた言葉が頭をかすめます。   

2. 石臼との出会い
 工学の分野ではもう完全に過去の遺物とたってしまつた石臼を追う。それはいったいどういう意味がるのか。技術史?道楽?郷愁? おふくろの味? その答はあとにして、石日との出会いは次のようでした。

 今から十何年も前のことです。木曽谷でこんなことがありました。

 「信州蕎麦を食ったことあるかい?」

 「ああ、松本の老舗で手打蕎麦を食べた一

 「あそこのは機械挽きの粉しか使ってねエだ、石臼で挽いたものでな きゃ、とても手打蕎麦とはいえね」

 残念ながら私は蕎麦通ではないので、折角臼で挽いた粉の蕎麦を食べさせてもらっても、よくわかったとはいえないのですが、石臼でつくったものと、機械挽きのものとの差を指摘されたときは、私にとって大きなショックでした。

 私の専門は粉体工学、そして最新式の粉砕機や分級機についてよくわかっているつもりでいたのに、この蕎麦の話は解くことができません。しかし「石臼」というのが私の心につきささったのはこの時でした。

 そのご、京都へきてからのことですが、友禅染に使う糊をつくっている松伊製糊さんへゆく機会がありました。そこへ新しい機械が入って、今まで使っていた石臼をとりかえるというのです。ご主人は「石臼は能率がわるく、ひき合わないからやめる。しかしほんとうは石臼でなければある種の高級な柄ものに使う糊はできない」といわれます。そこで前にきいた蕎麦の話との一致を感じ、本気で石臼に取組む決意をしました。
3. 現代の粉砕機と石臼のちがい
 現代の粉砕機で作られる粉と石臼で作られる粉とでは、ちがうという。ではまず現在の粉砕機は、どんな仕組で食物を粉砕するのでしようか。粉砕機には非常に沢山の種類があります。しかしそれらはもともと石のものを粉砕するのにつかわれたものが多い。セメソトとか、あるいは砕石で岩石を粉砕する、あるいは石の粉末を作ってカルシウムを作るというような大量処理の機械として発達したものが大部分です。たとえば、建物の床材には塩ビの板がつかわれます。これは塩ビというよりも石の粉を塩ビで固めたものという方が正しいでしょう。そういう石の粉を沢山つくらなければいけない。そういう点で石の粉を作る機械というものは非常にすぐれています。その技術が横へ流れて、食品にも使われるようになりました。

 それはどういう原理が主になっているかといケと、ほとんど叩く、あるいは衝撃、いいかえれば鉄鎚で叩くといったようなことが基本になっています。ところが石臼の場合はそうではなくて、ちょうど揺鉢で摺るというような機構が基本になっている。普通、揺鉢でする速度というのは、いうまでもなくゆっくりしていますが、機械、衝撃の場合ですと、だいたい一秒間10メートルとか50メートル。1秒間50メートルの速度といったら新幹線のひかり号の速度。それから1秒間100メートル、食品粉砕では100メートルあるいはそれを越すのがありますが、こうなるとピストルの弾丸のスピードに近くなってきます。そういうスピードでやるから、非常に高速度で、高能率であるのは当然といえましょう。それに対して臼は、あくまでも摺ることを基本にしているから扱う量が少ない。それが工業的に石臼が廃れた主な原因といえましょう。

 

4. 現代の粉砕機と石臼のちがい
ようか。現在、
現代の粉砕機で作られる粉と石臼で作られる粉とでは、ちがうという。ではまず現在の粉砕機は、どんな仕組で食物を粉砕するのでし
粉砕機には非常に沢山の種類があります。しかしそれ
らはもともと石のものを粉砕するのにつかわれたものが多い。}セメソトとか、あるいは砕石で岩石を粉砕する、あるいは石の粉末を作ってカルシウムをつくるというような大量処理の機械として発達したものが大部分です。たとえば、建物の床材には塩ビの板がつかわれます。これは塩ビというよりも石の粉を塩ビで固めたものという方が正しいでしょう。そういう石の粉を沢山つくらなければいけない。そういう点で石の粉を作る機械というものは非常にすぐれています。その技術が横へ流れて、食品にも使われるようになりました。それはどういう原理が主になっているかといケと、ほとんどたたかたづちが叩く、あるいは衝撃、いいかえれば鉄鎚で叩くといったようなことが基本になっています。ところが石臼の場合はそうではすりばちなくて、ちょうど揺鉢でするというような機構が基本にたっている。普通、揺鉢でする速度というのは、いうまでもなくゆっくりしていますが、機械、衝撃の場合ですと、だいたい一秒間十メートルとか五十メートル。一秒間五十メートルの速度といったら新幹線のひかり号の速度。それから一秒間百メートル、食品粉砕では百メートルあるいはそれを越すのがありますが、たまこうなるとピストルの弾丸のスピードに近くなってきます。そういうスピードでやるから、非常に高速度で、高能率であるのは当然といえましょう。すそれに対して臼は、あくまでも揺ることを基本にしているから扱う量が少ない。それが工業的に石臼が廃れた主な原因といえましょう。

5. 臼はまだ生き残っている

材料が鉄でなく石だということは、本質的な問題ではありません。大量生産という点では、石日はとても機械に太刀打ちできないから石日は滅亡の運命を辿ったのですが、しかしまだ例外的には生き残っまつちやています。一番代表的なのは、抹茶です。抹茶は現在でも非常に上等なのは石臼で挽かれています。京都の宇治では抹茶用に何千台の臼が稼働しているといわれます。また京都の「湯波ゆぱ半」さんというお店では、先祖代々今でも湯葉をつくる原料の大豆を石日で挽いておられます。それから、挽き臼ではないですけれども、搗き臼をつかっているものの代表的なものにカレー粉があります。あの味を出すためには、現在のどんな粉砕機も臼にはかないません。ジェットミルに至るまでのあらゆる最新式粉砕機によるテストを経て、やっばり臼に限るという結論になったといいます。それから茄弱(こんにゃく)にも掲日がつかわれます。水車で動かしてやっている大きい工場にゆきましたが、隣のモーター駆動の工場よりも水車の方がはるかに工場は静かだし、だいいち油やモーターの刷子からの銅粉混入たどの厄介な問題がない。考えてみれば、水力発電所の水車から遠まわりして電力をつかうのは、ナソセソスともいえます。それから食べ物の味とはちょっと違いますが、初期にはセルロシソという木粉が花こう岩の石臼で挽かれていたものでした。、テレビたどの電気製品の絶縁体であるべークライトに入っていたものです。また日本人形や絵の具の顔料として珍重されている天然胡粉は天然の牡蠣(かき)の貝殻を石臼で挽いて作られています。さらにさいきん、松江市にある袖師窯で陶器の紬を石臼で挽いているのを見ました。これも鋼製ボールなどによるテストを経験たあとで、ここにもどったものです。

6. 石臼の仕組み

 さで、石臼でなければできない味があるとすると、それはいったい何故なのでしょうか。粉砕の仕組と関係Lがあるのでしょうか。何しろ現代の粉砕機はピストル!の弾丸の速度で食品を粉砕するというのですから。挽き臼はまるい石の面に細かい目がつけてあります。それは互いに交差するようになっていて、回してやりますと、潰れたのが溝の間を通りながら、外へ少しずつ出てゆきます。その時に、さきほどの摺り鉢をするというメカニズムが働きます。これはものを潰すということと同時に「ねる」という作用が複合されています。これは非常に大切な点です。石臼での粉砕は、せいぜい人間の体温くらいの温度でゆっくり、しかも「ねる」作用をともないながら粉砕されます。ところがふつうの粉砕機はさきほど申したように非常に速度が速いということと、それから叩いたりするために高速度の空気に触れる。そこで空気の中に匂いが持ってゆかれるとともに、酸化もおこる。それから非常に速い速度で瞬間的に切るから、局部的に非常に高い温度になって、変質してしまいます。熱で変質しない鉱石を粉にするのと同じ原理を、熱で変質し易い動植物質である食品の粉砕にも当てはめたこと、どうもそのへんに無理があって、機械と石臼との味の違いをひきおこしているようです。、

 それからもう一つ大切なことは粒子の形です。たとえば米の粉ですと掲臼や挽き臼でつくった粉は顕微鏡で見ますと、丸い形になっています。そういうものを手で握ってみますと、クックッというような感じがします。それがどういう結果をもたらすかというのはさておいて、ともかく粒子の形、性質が違うということです。みたらし団子というのがあります。串に刺して五つぐらい並べて、焼いたものですが、さいきんはおいしい団子を売る店が殆どなくたってしまいました。やはり米の粉、あるいは原料の米から吟味しなければいいのはできません。そのあたりで粉体工学としても非常に反省するところがあるんですね。握るとクックッという音がするという性質を、粉体工学でどう表現するかというのは、なかなか難しい問題です。

7. 機械で作った粉

 粒が丸くて、握るとクックッと音がする、石臼では機械でつくった粉そんた粉ができて、そういう粉の性質が味にも大いに関係がありそうだといえそうです。では機械でできる粉の粒はどんな形をしているのでしょう。叩き切ったり、強烈に押し潰したりしますから、形がやはりとんがってくることが多いのです。それで食品というのは、人間が直接食べるもののほかに、牛とか豚とか鶏の食べる飼料がありますが、たとえばトウモロコシを衝撃式の百何十メートル、一秒間に百メートル以上の速さで走るナイフで切って飼料をつくります。それを食べる豚の胃袋が傷んで、たとえば人間と同じように胃潰瘍ができる一つの原因だというような説もあるといいます。

8.  、石臼のような粉砕機は作れるのか

 どうも現代の粉砕機にとっては分の悪いことばかりですが、一ついろいろな知識を動員して粉ができる機械を作ることはできないものでしょうか。石の代りに砥石を使ったものは豆腐や食品用に古くからつかわれていますが、石臼の性質を完全に反映するまでの研究はなされていない中途半端なものでしかありません。熱で変質するということにたいしては冷凍粉砕といって、液化窒素の中で粉砕する方法がありますが、粒子の形やねる効果などは別問題になります。それから小麦の場合ですと、今の小麦はロール粉砕といってロールの表面に溝を付けて粉砕されております。これは臼の目の改良型でありmますから、そういう面では臼に近い訳ですが、高速度で粉砕するという点は変わりありませんし、もちろん「ねる効果」がぬけています。

9. 石の粉の混入のおそれ

 さて、石臼にはすり合わせる面に目があります。石の材質によっては目の無いものもありますが、多くは目があって地方によって目の形が違い碁。そして長い間使っていると目がすり減ってくるので、目立が必要になります。この目立というのは、非常な名人芸で、この技能を持つ人が少なくなったことが石臼の引退に拍車をかけたということです。ところで、目立が必要なほどすり減ってしまうとすれば、そのすり減った分の石は食品に入るのではないかと心配です。しかし考えてみますと、人類はもう石器時代から食物は石で粉砕してきたわけです。ですから石の粉は少なくとも何千年以上もの間食べてきたわけです。別な観点から申しますと、薬と思っている医薬品は大部分が石の粉だということです。錠剤の部分は炭酸カルシウムなどの石の粉を固めてあるものでそのほんの一部に特殊な薬品が入っているのが、ありがたがって飲んでいる薬です。、

10. 機械粉砕の危険性

 むしろ心配しなければいけないのは、機械的な粉砕機になってから金属の粉が食品に入るようになったことです。私達はパソにもうどんにも金属の極微粒子が入って、毎日それを食べています。大正あるいは昭和の頃になってから入るようになったこの金属の微粒子は、極めて少量ですが、人体の生体組織の中でどういう作用をするかはまだ全く知られていません。金属はきわめて安定な合金だとしても、摩耗した微粒子が何なのか、その追求はきわめて難しい問題です。それからもう一つ、食品が高速粉砕されると変質する、瞬間的な熱で変質します。そのような変質してできた物質が何なのか。それはほんとうに無害なのかどうか。特に日本人にとって、パソを子供の頃から食べた歴史というのはありません。今の若い人たちが年とってから、あるいは更に何世代かあとのことでなければ、その効果はわからないのでしょうか。石臼で粉を挽くとき唄う粉挽き唄は、全国各地にありますが、実はこの唄の速度で臼を回す速度が調節されていたのです。粉の入加方にもよりますが、良い粉が出来るのは、おおよそ一分間に五十回ぐらいです。さて、いざ工学的に石臼を研究しようとしても、なかなか簡単にはいきません。形だけ真似たとしても良い粉のできる臼になるとは限らないのです。そこで臼を知るには臼を観察しているだけではだめで、京都・白川の石工・谷和助さんの指導をうけて自分で臼を作ってみようと考えました。

11. なぜ加工食品が必要か
 最後に、石臼を作る過程で感じた亡とをお話しましょう。最近非常に世の中は便利になったし、それから食生活が改善され豊かになったとみな思い込んでいますが、本当にそうでしょうか。石臼をつくりはじめて私はこのことを反省する機会を与えられました。石屋になって一日中玄能を振りまわしますと非常に腹が減ります。私は大学にいるから昼は食堂に行っていた訳ですが、食堂で二食分たべても腹が減ってしまいます。しかたなく自分でつくることにしました。粉体工学研究室では、食物をつくるのには道具がそろっていてわりあい簡単なのです。まず味噌汁を作らなければいけない。味噌を買いに行きますと、町に売っているのは殆んどが潰してしまった濾した味噌です。私はとくに豆の味噌を買ってきました。豆味噌から食べれば豆の組織の中に自然に保存されたものですから、味がおいしいのは当然です。そういうことをいろいろと重ねてゆきますと、一つの疑問が起りました。即席のものといかなくても加工度の高い食品が多いが、なぜそんなものがあるのかということです。私なんか忙しいんだから即席の味噌汁を買ってきたらよさそうなもんですけど、それを豆味噌からはじめたら非常に時間がかかるのか、というと決してそうではないんですね。そんなにかわらないのです。私どもは何となく世の中は便利になった、豊かになったと思い込んでいるだけで、そんなに便利ではなくて、はじめからやったってそんなにかわらない。それどころか、見かけだけ綺麗だけど明らかにまずくなってしまっている。今たまたま味噌のことを申しましたけれども、他のものも反省してみますと、いっばいそういうものがあります。そういう即席ものを買ってくれば、あとで山とゴミがでるだけなんですね。私どもは縞麗な包装用紙を買う、それから非常においしいんだというテレビのコマーシャルなんかの暗示をうけて買うのであって、本当においしいものを食べるということは、もうできなくたってしまっているということです。

 それからもう一つ、本当の手作りというものは、やはり粉を作るところから始めたければいけない。そういう点で非常に面白い話を聞きました。それは岐阜市内の2、3の中学校で中学生に石臼で小麦を挽かせて粉を作り、それからうどんを作って食べるという一連のことを家庭科の学習でやっておられたことです。人間の技術の歴史を追体験といいますか、自分で体験してみるということによって子供たちが生活文化というものを本当に身にしみてわかり、そこから現代の食生活の歪みを見つけ出すようになるというのは、ほんとうにすばらしいことだと思います。(コイソプックス3「小麦と石臼と子どもたち」参照)
12. 石臼は復活するか

 家庭で、原料の粉から石臼で挽いて食物を作ってい石臼は復た昔とはちがい、現在は食品工業がその役割を果しています。そこで、確かに家庭での労働は負担が軽くなりました。その反面、石臼の時代にくらべて食物の味は画一的になり、味の劣るものがでてきました。しかも味についての選択は、これ以外に選びようがないのです。どこかで石臼を手に入れることができたとして、粉から蕎麦やうどんを作ろうとしたとき、原料の蕎麦や小麦はスーパーマーケットで売っているとお思いになりますか。たとえ手に入れたとしても、それは果してわが国の国土で育ったものはなかなか手にはいらない。

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