リンク:曲谷失われた曲谷臼調査報告


縄文土器出現は世界初の調理革命だった

 人類文明の発祥地はエジプトとメソポタミア、インド、黄河流域の中国が四大文明発祥の地とされているが、古代人の生活において画期的発明は縄文土器だという(志村史夫著『古代日本の超技術』(1997,講談社)。いままで食べにくかったものをたべられるようにし、食物資源の範囲を広げて人類の生存圏を広げた。 また縄文土器の文化史的意義について、縄文土器の専門家:小林達雄は次のように書いている。

 「それまでの道具(石器や木、竹など)は、用意した素材を割ったり削ったりしてしだいに大きさを減らし、目的とする形態に仕上げる減量型であった。ところが土器は、掌にした一塊の粘土に次々と増量しつつカサ上げしていくという正反対の方向をとる増量型である。しかも石器などでは、いったん打ちかいてしまった部分は、たとえ不本意であっても、もはや修復不可能である。けれども土器は、加除修整は自由自在である。このように土器は、それまでの人類史には絶えて見ることのなかったまったく新しい造形学的性質をもつ。やがて縄文人は道具としての土器の形態を実現するだけでなく、その造形の自由さを利用して縄文人の抱く世界観を表現するキャンバスにしていった。言い換えれば、縄文土器は日常什器の一つというにとどまらず、いわば文化的な機能の重責をも果たすようになったのである。」(小林達雄著『縄文人の世界』(朝日選書,1996)

 土器の出現は調理革命を起こした。煮て食べることが可能になったので、堅いものを軟らかくして、いままで食べられなかったものが食べられるし、味つけも可能となった。人類の食文化の開花であった。


世界最古の土器は縄文土器だったらしい。(2002年4月現在これは動かない事実だ。
 現在までのところ世界最古の土器とされているのは、12000年前の土器が佐世保市瀬戸越町泉福寺洞窟から出土した 豆粒文土器である。

科学的年代測定法と出土層から、一万ニ、三千年前のものと推定されている。イラクのジャルモ、トルコのチャタルヒューク、エジプトのファユーム各遺跡より何千年も古い、世界最古の土器とされている。縄文土器の独特の形については、小林達雄著『縄文土器の研究』(学生社,2002)で、「すでに慣れ親しんでいた編籠とか樹皮籠とかあるいは獣皮袋の形をまねしたとかんがえられる。」と書いている。なお豆粒様の模様は、「編籠の編み目に重ねて編み込んだりしながら飾りつけた籠の文様かもしれない」と。
 土器を作るには粘土が必要だが、これは森の植物が岩石の分解によって作りだしていた。また日本には土器を焼く燃料も森が作り出していた。粘土を捏ねる水もあった。 このような恵まれた条件が日本にあった。土は花崗岩が風化して出来るが、その風化過程をしめす粘土が伊吹山の西麓(曲谷)にあった(1979年3月27日)。その場所は蝮と熊の恐れがあり、夏の前の短い期間しか近づけない場所だった。私は村人の案内で曲谷臼産地調査のため3回にわたり現地調査した。その第3回目だった。

、調査の序でに山菜取りをと少し山に入ったところ、谷あいの小川に山葵(わさび)の自生地があった。山葵を取ろうとすると、花崗岩の岩肌が見えた。岩に生えている感じ。ところが表面はつるつると粘土の感触だ。カッターを持っていたので、切るとまるで豆腐のように切れた。その試料を大切に持ち帰って、乾燥すると粉になってしまった。地学の先生に知らせたら「ホウ」と感心された。珍しいことらしい。

  粉なる土から縄文土器ができたが、そのための粘土は豊かな日本の森の産物であった。

曲谷臼の石肌模様は独特だ

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