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 伊吹山麓の曲谷臼とは

 東海道新幹線下りで岐阜羽島をすぎ、関が原トンネルをくぐって、米原も近くなった頃、右手に大きい山容を見せるのが伊吹山である。かつては薬草の山として有名で、山頂まで植物が繁っていた。しかしいま新幹線から見る伊吹山は、西側を大きくえぐりとられて痛いたしい。これは自然の土砂崩れではない。山の西麓に沿って細長い紐のように光ってみえる、某セメントエ場の巨大なベルトコソベアが、伊吹山を運び出している。この美しい山を削りとってまで、つくり出さねばならない文明とはいったい何であろうか。この山をもとにもどすために、われわれの子孫は巨大なコンベアを逆にまわすことだろう。

 このコンベアに沿って姉川(織田信長と浅井長政,朝倉義景連合軍の戦いで有名)の清流が流れ、その上流に「曲谷」という小さな村落がある。この村はかつて村中が石屋を営み、石臼を生産していた。この村へ入ると、あちこちに、半成品の石臼がゴロゴロしているのが目につく(口絵)。伝承によると、木曽義仲の従者、西仏房が、石臼づくりを教えた。浄土真宗大谷派の円楽寺には西仏房が自ら刻んだという石像が本堂に安置されている。ここでつくられた臼を「曲谷臼」といい、滋賀県、岐阜県の一部に分布している。その特徴的な形態によって、他の地方の臼と区別しやすい。前著『石臼0謎』には記事が間に合わず、二六八ぺージにすこし触れるにとどまった。その後、滋賀民俗学会、伊吹町教育委員会のご協力と、地元の民俗研究者伊夫気俊太郎氏らの努力によって、3回にわたる調査を行なうことができた。隣接地区との関係も調べた。

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