五木寛之著『他力』(講談社刊,2000)476円 (このページは10kBです)
この著者の本は何冊かあるが、どれもお坊さんの説教のニセモノの感じで、私はあまり好かなかった。ところが今度の本はこれはイケルという感じ。現代的課題をかなりきびしくえぐり出している。困難な時代を生きる100のヒントという副題がついている。英語版も出るらしい。
以下は私のメモ。
29. 人生は自分で放りだすほどにはひどくない p.94
「いま、私たちを取り巻くものは、食べ物にいたるまで、ての実感が希薄になっているような気がします。「いまの世の中はなどと言うと年寄りの繰りごとみたいになりますが、それでもあえて言うと、昔の卵といまの卵とではどちらがいいかと言えば、昔のほうがよかった。卵らしい卵だった。第一、色が違います。昔の卵の黄身はオレンジ色に近い黄色で、皿の上に落とすとぷっくり持ち上がって、スプーンでつぶそうとしてもなかなかつぶれなかった。それぐらい力強い卵だった。水も悪くなっている。空気もまずくなっている。ミカンだって、ハウス栽培ものが多い。日差しをたっぷり吸収して金色に輝いていたミカンではない。果物ひとつとっても、自然の中で生きている実感がこもっていないのです。いまの中学生、高校生に「人生は喜びと希望に満ちている」と言っても、たぶん届かないでしょう。むしろ、「人生は自分で放り出すほどにはひどくない」という言い方のほうがましかもしれません。まず生きていること、存在することが大事です。苦しみの多いこの世の中に、生きているだけでもすごいことなのですから。
30. 物語をつくる想像力がキレた結果か p.96
子供たちは、以前は暮らしの中でいろいろな物語を聞き、頭の中に物語がいっぱいつまっていました。しかし、いまはそれが乏しくなっています。物語を豊かに持っている子供は、ナイフを取り出した瞬間に、刺してどうなるかというストーリーが一瞬のうちに浮かぶはずです。その想像力によって、これまでキレることが抑止されてきたのではないでしょうか。キレるというのは、物語をつくる想像力が切れるということです。テレビのコードを引き抜いたように、一瞬、画面が消えてしまい、空白の瞬間が生ずる。初語の根は想像力にあります。そして物語性がその人を支えている。人は過去と未来の時間的連続の中に自分がいることを感じ、社会的連続の中に存在することを確認しますが、その縦軸と横軸を作り上げるのが物語です。」
52. ビジネスマンたちは呆然と立ち尽くして p.158
企業は一株当たりの利益のみを追求して、社員はいつでも切って捨てることができる。自分の周囲はみな敵、自分の収入は自己責任で守らなければなりません。そういった価値観を受け入れて、疑似アングロサクソンにならなければ、これからのビジネス界では生きていけない。そういう時代が迫ってきています。 しかし、そうは言っても、私たちの心の中には有史以来、この島国で育んできた文化や感性が生きています。このアジアの一角で、シャーマニズム、アニミズムに始まって神道、仏教を受け入れてきた長い歴史があります。これこそが日本人のアイデンティテイであって、何千年という時間の中で培われてきた心のありようはそう簡単に切り替えられるとは思われません。
54. 洋魂洋才でやれと強制される時代 p.164
欧米というのは一見、科学的・合理的な価値観を徹底して追及しているだけのように見えますが、じつは非常に根深い宗教感覚が内包されているのです。神の見えざる手を信じる心がなければ市場原理は成り立たない、という考え方が彼らにはあります。いま、日本のビジネスマンに突きつけられているのは、経済論でもなく、処世術でもありません。こうした精神的な価値観そのものを受け入れるという、哲学的な問題にほかならないのです。これまで日本人はそうした宗教、哲学の問題には触れずに、まさに技術的な部分のみで外国と接してきました。〈和魂洋才〉とはそのことです。そうして世界に冠たる日本という技術立国の地位を築いてきた。今後は心の問題、信仰の問題と、否応なく向き合わなければならない時代が到来します。〈洋魂洋才〉にしろ、と言われているのです。たいはい政治の混乱、経済の崩壊、宗教の頽廃、自殺者の増加、少年凶悪犯罪の激増……。
55. 大阪ビジネスの背景にあるお陰の感覚 p.167
そこで私が注目しているのが大阪商人なのです。そもそも大阪の基盤は石山御坊の寺内町です。道修町も船場もかつて寺内町にあった繊維問屋や薬品問屋が発展して、その伝統が残っています。大阪のメーン ストリートである雛鳥脇は、昔の梅田と難津村の間に北御堂(西本願寺津村別院)、南御堂(東本願寺難波別院)があったことからついた名前で、御堂の鐘の音が聞こえるところに本店を持ちたいという父祖伝来の夢を持った近江の門徒(浄土真宗の信者である)商人たちが集まって、やがて丸紅とか伊藤忠といった商社もやってくる。さらに繊維とか薬品以外のいろんな企業が集まって大阪の経済を支えました。ですから御堂筋は信仰によって支えられた街だったのです。大阪商人の気質をあらわす例として、よく「儲かりまっか」「まあ、ぼちぼちでんな」などという挨拶を交わすと言われます。しかし、古い大阪の人に聞くと、昔は、儲かりまっかLと聞かれると「おかげさんで」と必ず言ったそうです。「おかげさんで」というのは神仏のご加護によってなんとか生きていけることを〈お陰〉と感じて、その〈お陰〉を感謝する思想でしょう。お伊勢多りを「お陰参り」と言うのと同じです。そう考えると、大阪商人はじつは根のところに非常に精神的な、宗教的な心根をもった人たちであり、大阪ビジネスの背後には、儒教的な倫理のほかにお陰という宗教的な感覚もあったということになります。
78. 無差別救済と無差別殺人の関係 p.234
親鸞を考え、蓮如を考えるということは、おふたりがいまおられたならば、そこで何と言われるかということに帰一するのです。オウム真理教に対する世論の非難の最たるものは、サリンによる無差別大量殺人でした。アウシュヴィッツでナチスはユダヤ人を選別して殺しました。これは差別殺人です。もちろん、どちらも許されないことです。しかし、救済の論理には、差別的な救済と無差別救済があり、真宗の救済は悪人成仏ですから無差別救済なのです。この無差別救済と無差別殺人は、ひょっとするときわどいところで表裏一体なのではないか。いのちがもし蓮如が生きていたなら、オウム真理教と命懸けで法論を挑みながら戦ったのではないかと思います。 蓮如は親鸞がのこした信仰を、子供だましのような方法で民衆をまどわす他の寺のお坊さんに対して、八つ裂きにしても飽き足りないというほどの激しい言葉で批判した人です。親鸞の教えを歪めて人々を惑わせるものは断じて許せない、と。ましてや麻原は、となると蓮如は絶対に許さなかったのではないか。
93. 大イベントが好きだった蓮如の好奇心 p.277
本願寺はサンガ(信仰共同体)であると同時に、文化の共和国でもあります。ヨーロッパの音楽における教会、ルネサンス芸術とヴァチカン、音楽とギリシャ正教というふうに、宗教の本山は民衆の文化的な本山でもあるのが普通です。そういう意味で、本願寺は、親鸞聖人以来の信仰の城であると同時に、階級を超え、学問的、史料的、美術的な「根の国」と言っていいでしょう。
蓮如が北陸布教の根拠地とした、現在の福井県にある吉崎御坊の絵図を見ますと、言われているほど豪壮な風景ではありません。「多屋敷百軒」など記録として書かれていますが、絵図にはそれほど華麗な感じがない。山科本願寺も、現代から見ればもっと簡素だったかもしれない。しかし全体の規模は、地図で見ると非常に大きいのです。寺内町と言うほどですから、当然かもしれません。そこでは、すれ違う人が強盗ではなかろかとおそれるような不安はなく、ひとつの信仰という、へその緒でつながった人々がひとつの町の中に、寺を中心に運命共同体として自治的な町をつくっていた。そこで暮らす人々の、歓びに満ちた立ち居ふるまいが、当時の、荒れすさみ人間がお互いにオオカミ同士だったようなほかの土地に比べて、訪れる人々にはあたかも極楽浄土のように思われたのではないかと思うのです。当時は、土一揆が近畿でもあちこちに起こり、山科から山ひとつ越えた京の町は応仁の乱で荒れ果て、死体が打ち捨てられていたのですから、そういう荒廃したほかの地域と対比させて想像すると、寺内町はやはりこの世の浄土でした。私の経験でも、戦後の焼け跡で見た闇市のにぎわいは極楽浄土のように思われました。山科本願寺も、その当時としてはぜいたくな建物だったのでしょう。寺内町のスケールは驚くほど大きかったし、活気があったに違いない。もともと本願寺は、特に、蓮如はそうですが、芸能や美術、工芸、建築、造園といった仕事に擬がる人たちを積極的に迎え入れたのです。こういう人たちは、田んぼや畑を耕す、いわゆる良民とは違い、当時は不当に蔑視されていたようです。そういう人々を寺内町は大勢抱えこんで成立します。蓮如は、そこで茶の湯を興行しました。
99. 先見性のある宗教家 p.294
蓮如は既成宗教の批判者として、また親鸞の思想の正しい伝達者として、焦土と化しつくした中世を疾駆しました。彼がはたそうとしたことは、多くの人々の飢えた魂の再生であり、民衆ひとりひとりのアイデンティティの確立、人間の復興でした。いまの日本の宗教界に蓮如のような人物がいないことがさびしく思えるのは、私だけでしょうか。いま、ひとりの蓮如がいれば、「既成教団はいったい何をやっているのだ」かと批判するだろうし、また、上九一色村に行って、先頭に立ち、全勢力を挙げてオウム真理教と戦ったはずです。
当時の蓮如にそれが可能だったのは、優れた先見性を持っていたからでしょう。彼が門徒と膝を交えて平座で対話をした話は有名です。それまで本願寺の法主は上段まの間に座り、門徒と接見していました。蓮如はそんな上段の間を全廃し、すべての門徒 と膝を交えて話すことを宣言した最初の人でした。この世にあって、阿弥陀の光の前にはみな平等であると、四民平等主義を説き、それも実行していたのです。
旧来の仏教思想では、根本的に女性は救われないことになっていました。親鸞は、苦心の末に、女性はいったん男性に変身した上で救済されるという、〈変成男子〉という思想を採用しました。ところが、蓮如は大胆不敵にも、罪が大きく差し障りの多い人間から救われるのだから、女性こそがいちばん最初に救われるのだと説きました。
また、蓮如は、吉崎、山科、大坂などに寺内町を築き上げた。寺内町は、城下町とは反対に寺を中心に商家、民家、宿屋、鍛冶屋などあらゆる建物がそれを取り囲み、その外側に堀や塀や土塁を築いて、ひとつの都市を作り上げています。 この町の特徴は、寺と他の家屋が運命共同体になっていることです。町が焼けたときには寺も焼ける。寺が滅びると、町も滅びる。城下町のように、城を守る都市とはまったく違います。
こう考えてきますと、蓮如という人物は、きわめてルネッサンス的な人物だったと思われてなりません。蓮如没後万百年のイベントも終わり、いわゆる蓮如ブームは一段落っいたかのようです。しかし、本当の蓮如の出番はこれからでしょう。いままさに、真の蓮如の力が試される時代だと私は思うのです。