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そうめん(素麺)

 テレビ番組「なるほどザ・ワールド」は意外に視聴率が高かった。この番組で京都の珍しいものを紹介したことがあった。まず清水の舞台が出た、そして古い町並。…さて次は、赤レンガの建物。なんと同志社だ。そして私の研究室のミュージカルサンド(鳴き砂)……。こんなことがあってから、修学旅行の中学生や高校生が、何人か連れだって私の研究室を訪ねてくるようになった。先生抜きの自由行動だかぢ、みんなたいへんな元気だ。私も記念写真の仲間入りをさせられる。いつの間にか新京都名所になったらしいのである。「どこかほかに、行くところを推せんしてくれませんか」というから、「ちょっと遠いが東福寺へ行ってみませんか」ということにしている。意外に訪ねる人が少ないが、秋だったら通天橋の紅葉が有名だ。しかし、四季いつでもたのしい。度かさなる火災のため、今の伽藍は新しくて小さいが、壮大な山手一帯に広がる東福寺のありし日をしのぶのがたのしい。寺の中に山あり谷あり、さすが京都五山の一つだと思う。そして五山華かなりし頃のお寺の権力の大きさを偲ぶのもよい。

 ところで、東福寺は、小麦製粉や麺業関係者の間では宋代の中国から麺の技術を伝えた開山の聖一国師の威徳が讃えられ、参詣する人が多い。ことに毎月17日は国師の命日にあたり、にぎやかである。私は某テレビの取材に同行して、この寺を訪ねた。この日は涅槃会(ねはんえ)、釈尊の遺徳奉讃追慕のための法会で、他の五山のお坊さんたちも勢ぞろいしていた。「この寺でお祈りするのは国家安泰です」という。さすがスケールが大きい。取材は聖一国師に朝食をお供えする行事からはじまった。この行事に参列するために、朝早く訪ねたのであった。そうめんが、五つの小さな蒸籠(せいろう)に盛ってある。昆布だしのおつゆと、大根が添えてある。大根はおろしではなく、約8mm角、長さ約5cmぐらいに切り、まるで薪(まき)のように2本ずつ互いちがいに積みあげてある。「開山のお顔を洗うところから、朝の行事がはじまるのです。この開山のお世話をする行事は、700年間、1日も欠かすことなく、ずっとここで続けられてきたのです」と淡々と語る僧侶のお話を聞いていると、歴史の重みが、自然と伝わってくるのも、このお寺ならではである。  
 「そうめんは、昔はここでつくったのです。いまは、町で買ってきますが。大根も、いまはいつでも手に入るのですが、昔は時季はずれには苦労して手に入れたものですよ」という。とくに食糧危機の戦時中は小麦粉の入手が大変だったが、一日として欠かさなかったという。

 ところで、どうして「そうめん」がお供えされるのか。この日の取材は、国師が伝えた技術の証拠物件ともいうべき古文書を見せていただくことにあった。『大宋諸寺之図』(重要文化財)である。しかしその存在については知られていても、詳しく紹介されたことはない。是非見たいものだと思った。だがそれは宝物庫に収蔵されている。蔵の鍵は他の五山の管理下にあり、東福寺だけでは入れないしきたりになっている。こうして大切な宝物が保護されているのである。幸い当日は五山の僧侶が勢ぞろいしていた。その古文書のなかにある筈の図は、きわめて貴重な歴史的意義あるものですということをお話しすると、それじゃ見ようかということになった。係の僧侶2人が長い時間をかけて読教のあと持ち運んでこられた。大きな巻物であったが、とうてい700年の星霜をへたものとは思えぬ、真新しい感じだった。大切に保存されてきたのである。赤いじゅうたんの上でひろげられる絵図を、全員息をつめて見守った。

この図は篠田 統著『』による。妙心寺本とある。

宋代諸寺の各種設計図がつづく。国師は寺院建立の参考図としてこれを将来されたのである。その末尾に、『水磨様』(すいまのさま)と題する絵図があった。普通は末尾まで出さないのでお坊さんも初見だったらしい。水車で石臼を動かして製粉する工場の設計図だった。水車小屋の絵ぐらいにたかをくくっていた私は驚きだった。2階建ての工場で、水路の樋(とい)から落ちる水が、直径6尺の水車を回転させる。水車は直径は小さいが幅が広い。低落差大水量用の水車なのである。水車の水平軸の両端には歯車(ベベルギヤー)があり、2階へ貫通した垂直軸を回す。2階にはそれぞれの垂直軸の左右にそれぞれ2台の石臼(碾磑…粉ひき臼)があって、上臼と歯車で回転させるようになっている。石臼の近くには篩(ふるい)も設置してあって、石臼で挽いた粉をふるい分ける。石臼の一方は麺、他方は茶と書いてある。小麦粉のほかに茶(抹茶)も挽くようになっている。ところで直径6尺(約2m)という意外に小さい水車であるが、現在の通天橋の下を流れる谷川を利用して動かせる程度のものだ。これはほんとうに、この東福寺でつくられたのだろうか。知るべくもないが、いつの日か、発掘される可能性もある。石臼だけは腐敗しないから、残っている筈である。もしかしたら、石垣の間に顔を出しているのかも知れない。それは大へんな発見である。松尾芭蕉の名文『石臼の頌』にこう書いてある。「市申にあって俗塵によごれぬものは、げにそのはじめをよくするよりも、その終りをとぐることはかたし。…たまたまこれを見るに、ただ石臼のひとつのみ。聖一国師はこれをもて肉身をやしなひ、法身をしる……」

 聖一国師は石臼で粉をひき、そうめんをつくり、これを食べたという意味にとることができる。ただし芭蕉は17世紀、国師は13世紀の人である。芭蕉の頃には石臼はひろく庶民の間にも普及していたが、国師の頃には、五山のような最高級の寺院にしかない中国伝来の先端技術だった。それをつかって製造した麺は最高級の食事だった。いまでいえば、高級フランス料理であろうか。茶もそうである。この頃、茶を挽く茶磨(さま)が宋から輸入された。抹茶は五山の高僧や最高級武士ぐらいしか入手できなかったのである。
 それから400年の歳月をへて、ようやく千利休時代の茶の湯の普及がはじまる。ここにも、歴史の重みがあるわけだ。今年の2月頃になって、東福寺の新しい事実が明るみに出た。東福寺の宝船の話である。その話のはじまりは1976年11月10日の韓国新聞『中央日報』の記事にさかのぼる。韓国の木浦沖で、中世の沈没船が発見されたが、それは、青磁・白磁などの古陶器を山とつんだ宝物船だった。秀吉の宝船では? と噂もあった。この情報はたまたま当時留学生として同志社大学にいた留学生だった。そのなかに、石臼2点が発見されたという。私は急拠、ソウル中央博物館を訪間した。韓国の食物学の教授が同行したので、それが実現した。しかし当時まだ韓国考古学者の研究発表以前だったため、私はみるだけで、写真撮影も計測も許されなかった。日本と同じく考古学者の閉鎖性がここにもあったがそれは止むを得ぬことだった。その石臼は、確かに茶磨であり、蓮弁の彫刻のある見事な芸術品だった。ところが1981年になってNHKに韓国から情報が入っった。この宝船は東福寺所有のものだったことが判明したという。東福寺には、渡宋の僧が難波して、命からがら帰朝した記録があるのと符合する。当時の寺院がいかに強大な財力と権力をもっていたかを示している。こうして、古い時代のことが、少しずつ明かになってゆくのは楽しい。そうめんの歴史も、こういう道具の考古学的遺物と結びついて明かにされてゆくことであろう。ごく最近のことだが、東大阪でも、天皇家の御厨(「みくりや:食事を準備する場所)鎌倉時代の遺物のなかに石臼が発見された。手挽きの石臼としては2003年までのところ日本最古である。

 さて、東福寺とは関係ないが、私は、現在市販されているそうめんのおつゆについて、疑問がある。私の田舎は岐阜県養老郡上石津町の山奥であるが、法事などのときには、必ずそうめんが出る。そのおつゆには必ず酢が入っているから、私は、酢のないおつゆのそうめんなどとても食べる気がしない。ところがこの話を人にすると、酢なんてとても考えられないという人が多い。ある食物のシンポジウムでこの話しをしたら料理専門家が、「それは室町時代の食べ方です。でも今でも残っているのは九州のある地方だけと聞いていたが、まさか」と。でもこれ事実で、最近も葬式には必ず酢のそうめんが出る。

 酢は、古来つかわれてきたもので、現代の食事には少ないが、昔の人は実にたくさん酢をつかったものだ。そうめんのおつゆに酢をつかうのは、古来の法と考えているが、いかがであろうか。酢とみりんと、昆布だしのおつゆをご存知ない方は、是非試されたらよい。ことに夏向きの食欲増進にはもってこいだし、夏バテも解消することうけあいだ。聖一国師はそうめんもて肉身をやしない、精力絶りん、国家安泰のために活躍したもう。それにあやかって、元気に夏を過ごしたいものだ。 

 私は三輪そうめんの本場である桜井市の教育委員会から呼ばれて石臼の講演をしたことがあるが、たれの話をしたら珍しがられた。ついでだが、ここには三輪山をご身体とした大神(おおみわ)神社が有名だ。三輪明神ともいわれ、大和一の宮とされている。なぜか私の田舎にも三輪神社があるが由来は不明だ。

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