リンク:2004年NHK取材記


恋の浦幻想曲

 以下は、恋の浦の一握りの砂が、私にそっと打ち明けてくれた身の上はなしである。「ひと昔まえまで、恋の浦は、小さいながらそれはそれは美しい、人知れぬ浜辺でした。ですから村の若衆たちの、こよない逢い引きの場になっていました。三方が小山で囲まれ、入口がニつありますので、誰にも気づかれずに別々の道からこの浜に入り、そして誰にも気づかれずに浜から出ることができました。磯づたいの道も別にありました。恋人たちが白い浜辺を散策するとき、私たちは、ニ人の足もとをくすぐるように、ク、ク、クと恋のメロディを奏でました。伴奏は玄海の波音と、松風の音です。秘められた恋の浦幻想曲が、青い玄界灘の海に溶けてゆきました。

 あるとき、びったり寄り添った足跡が渚にそって続き、突然波打ち際に消えたことがありました。海鳴りと松風の伴奏だけが浜辺に残りました。それは、いまから370数年前の、慶長11年のことでした。津屋崎の庄屋、藤七の娘、嘉代と、博多の廻船問屋、万屋新兵衛の息子、仙吉とは、祝言の話がどんどん拍子に進み、結納もすんで、挙式を待つばかりになっていました。そんなある日のことです。筑前の初代藩主、黒田長政の叔父の養心公が、渡の薬師さまに参詣の帰りみち、突然、藤七の家に立ち寄ってヘお茶を所望されました。娘の

嘉代がお茶を差し上げると、殿はことのほか上気嫌で帰られ、不意のご入来に粗忽があってはと気をつかっていた藤七は、ほっと胸をなでおろしました。

 ところが四、五日たってからお殿の使いが来て、殿の格別のご懇望により、娘嘉代を殿の介抱付添人として津屋崎の館に差し出すようにと伝えました。それから間もなくのことです。津屋崎の京泊沖に、人気のない一艘の小舟がヘ波間に漂っていました。付近の漁師が不審に思って近寄ってみると、舟の中に一枚の短冊がありました。

  津屋崎の岸に寄る波返るとも

    恋の浦路は行く方もなし

      仙吉、嘉代

 それ以来ヘ村人たちはヘこの浜を恋の浦と呼ぶようになりました。それからも私たちは玄海の荒渡に洗われて身を潔めお恋のメロディを奏で続けてきました。

 ところがここ十数年来のことです。夏になると、不作法なよそ者たちがマイカーでどっとこの浜に押し寄せてくるようになりました。引き揚げたあとには浜一面にゴミの山。村人たちは見るに見かねて立て札をたてました。でも立て礼など見向きもされす。いまではゴミ捨場同然になり、それに海からもぐ空缶やプラスチックス製の空ぴんや、船舶の廃油が押し寄せてきます。恋を語るムードは消え失せ、白い浜辺も恋の歌を忘れてしまいました。

 最近、著名な文士がこの浜の紹介文を書きました。”いわく恋の浦は白砂青松と、清澄な紺碧の海。都塵を逃れて、ここに遊ぶ若者たちが、緑滴る松林の中に、色とりどりのテントを張るキャノブ場”と。観光会社から金をもらって、浜を一目見ることさえせずウソを書く文士。浜の砂をごっそり大型トラックで盗んでゆく土建業者。松食い虫。目本列島はヘ国土も、そして人の心も荒れ果てました。恋の浦はその象徴です。せひあなたは日本申の人たちにヘこの浜辺を紹介してください。日本の将来を占うために、この浜を見にいらっしやい

と。(この文は宗像伝説『恋の浦秘話(5)に脚色して、前著『鳴き砂幻想』(ダイヤモンド社刊)に出した原稿です。)上妻国雄著『宗像伝説風土記』(西日本新聞社、1978)

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