角海浜の歴史について東京在住の大倉陽子さんはこう書いている。「近世の史料によると、角海の砂浜は幅が200メートルもあり、塩田があった。そして、200戸余の村はもっと海よりに広がっていた。しかし、その村を海がしだいに呑みこんで、人々を山麓へと追い上げていった。村人は土地を失い、他国へ出稼ぎしなければならなくなった。男は大工に、女は毒消し売りに。人々はこれを苛酷な自然のしわざときめつけ、角海を廃村にし、そしていま原発へと導いている。海中に没したかつての村は、越後平野の豊かさのいけにえではなかったのか。そして、透明な石英砂に混じった黒い砂は、村の衰亡の歴史を物語っているのであろうか」
越後平野のほぼ半ばを潤す信濃川は、たびたぴの氾濫によって、大きな被害を与えてきた。明治3年に分水工事がはじまったが、その後、工事半ぱにして中止になった。しかし明治29、30、38年と、相ついで大洪水が襲い、明治42年、ぷたたび工事を開始、大正2年になってようやく完成した。分水路は大川津から寺泊北端までの弥彦山塊を掘り割った、延長10キロ分水呑口727メートル、海岸吐口180メートルの人工川で新信濃川と命名された。
大河津分水完成後、平野部の人々は水害から解放された。だがそれは角海浜一をはじめ、沿岸漁村が犠牲になることを強要した。海流を変え、沿岸の浸食をひき起こした。角海浜の砂はこんな歴央の証人だったのである。大倉さんは『新潟日報』1981年8月22日)にこう書いておられる。「今年もコンクリートジャングルの東京から、一路生まれ故郷の角海浜ヘ。だが、そこには、はっと胸をつかれる光景が。私を迎える海はなく、海上に頭を出してひしめく7、8台の巨大なボーリング機。巻原発建設の準備が一刻の猶予もなく進んでいた。掘削機の並ぶ海底あたりは、昔の村落もあるはず。水深2メートルに石造り井戸跡を見た人もある。往時、越後七浦の漁村は豊かな産業もあった。平野の農民が洪水に苦しんでいたころである。召し上げる一方で、施しのない政治にもとにかく耐え、村を開拓、末来に託した祖先の地だ。無縁仏になり果てた墓石、繁栄の時代に築いた観音堂のながい石段、用水路の石がき。いずれも歴央を証言してくれる史料だ。海浜の白い砂、黒い砂の下にも歴史の村は眠っているのだ。」
この町、巻町はでは原発建設をめぐって1995年に町長リコールで大いに揺れたことでよく知られている。そして「角海の鳴き砂をよみがえらそう」運動も起こっている。角海の砂には高温石英が格別に多いことも注目される。
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