リンク:北茨城に新しい鳴き砂発見


三輪茂雄著『鳴き砂幻想』(1982)p.211に五浦の鳴き砂として記載されていた。九十九里浜との関連で。

勿来の南隣で、茨城県側の鵜の子崎と、九の崎の間にある五浦は、勿来とはちがう砂粒が堆積し、粒もあらく、それに、瑪瑙や放散虫化石を含むめずらしい砂で、スキーキソグ・サソドの特性をもっているのは興昧ぶかい。

犬吠崎

 ハワイにはバーキソグ・サソド(犬が吠える砂)があるという。犬吠という地名は、もしかしたら……?あり得ない夢だが、古い観光案内に「犬吠崎と海鹿島の間に、緑の松林を背景に、美しい砂浜が弧を描いている」とあるので訪ねてみた。現在では景観が変わって殺風景な「君が浜」である。犬吠崎の海べりの遊歩遺を歩くと、砂岩と頁岩が層状に准積した砂岩頁岩亙層がみられる。またここはリヅブル・マーク(漣痕)や、炭化した化石でもよく知られている。波によって砂岩から洗い出された石英粒が、露出した頁岩の上に准積したのが君が浜である。こういう地質の場所にはミュージヵル・サソドが存在する可能性がある。たしかに、勿来から房総にかげての海岸砂のなかでは、石英砂の含有量がいちばん多い。あとは岩石片、長石、有色鉱物、浜砂鉄である。石英粒は明らかに鳴き砂の気配があり、洗浄すればわずかに発音特性を示した。利根川改修工事や護岸工事の影響がなかった当時は発音特性があったかも知れない。

九十九里浜

 北の刑部岬から、南の太東岬まで南北に約六〇キロも続く巨大な浜辺、九十九里浜。『上総国志』に「東総の地、海洋に面し、水天一碧茫々乎として際限なく」と表現されているこの砂浜にはたえず太平洋の荒波がぶつかって、砂はきれいに洗われている。ミュージカル・サソドが見つかっても、よさそうだ。もうひとつ、こんな可能性もある。「宮城県の九九鳴浜や十八鳴浜はク、ク、と音を発するのでその名がついたとすれば、九十九里浜は、九里九里、または九と九からその名がついたのではなかろうか」。

 さらに耳寄りな事実もある。太東岬の近くには鳴山という地名があることを、日本の鳴き砂の草分けである新帯国太郎先生は気にしていたし、現在の成東町には鳴浜という地名もあった。鳴浜は九十九里浜の臨海村落で、岡、薪田、納屋の三集落からなる半農半漁のりよつかい、村落だったが、1955年に緑海村と鳴浜村の一部を編入して成東町になり,残りの鳴浜村は片貝町と豊海を合併して九十九里町になった。

 現地を訪ねてみると、鳴浜中学校だの、鳴浜農協などの名が残り、タクシーに「鳴浜」といえば、すぐその辺りの浜辺へ案内してくれた。だが期待に反して、発音特性はまったくない。砂が鳴る浜ではなく、浜鳴り、海鳴りが地名の由来なのだ。鳴浜への道中でその解答を見出すことができた。成東町歴史民俗資料館には歌人伊藤左千夫の資料がある。彼には小説もあるが「九十九里浜の壮大さを讃えるために意気ごんで、小説の進行を忘れているのではないか」と批評されるほどに、あちこちで九十九里浜の描写にぺージを割いている。たとえば小説『分家』にこう書いている。「九十九里の波の音は、今日は南の方向に聞える。千里も五百重も鳴りかさなる多くの響きを、ひとまとめにした、非常に底力の強いどよみは、青い天と此の世のものと、春との親しみをたたえている。此の国のためには、永久に不断な大音楽であるところの、九十九里の波の音は、長閑かに穏やかな其美音を伝えて、昼となく、夜となく、雨の目も風の日も、夜の枕の夢の間にも、人の心やを揺すぶりなだめて止まないのである」

 資料館の隣にある左千夫の生家に入って耳をすますと、なるほど、浜鳴りが聞えていた。地名辞典によると、九十九里浜については二つの説が出ている。「九十九とは白の意なり。なんとなれば百ひく一は白なるが故なり」。もうひとつは、「源頼朝公が旧度法で六町を一里に数え、一里ごとに矢をたてて測量したところ、九十九本目に矢がつきた」。

 鳴浜のほか、白子、一宮、鳴山でも砂を採取した。一宮海岸あたりから南へ向かうにつれて、砂は黒い色の古銅輝石や砂鉄が多くなり、鳴山では、真っ黒な砂浜になる。これらの砂は洗浄すればかろうじてスキーキソグ。サソドの特性を示すが、鳴山の地名とはとうてい結びつかない。

 房総半島

 九十九里浜に続く房総半島沿岸にも、観光案内を見ると白砂の浜が多いことになっている。1923年につくられた、加藤まさを作詞、童謡「月の砂漠」は御宿(おんじゆく)の砂浜からの運想だと伝えられている。現在は中央海水浴場に賂駝にのった王子と王女の像がある。だがここの砂には不思議なくらい、石英砂がほとんど含まれず、大部分が貝殻の破片であった。海浜の汚染で死んだ貝たちの遺骸の山なのだ。あしか(海驢)

シヨーで知られた鴨川シーワールドの案内書には「白砂の美しい東条海岸」とある。だがここにも白砂などまったく存在せず、黒い雑石と貝殻片であった。貝の遺骸から出る白い微粉が、黒い雑石にこびりついて、一見、白く見えているのである。このようにして房総の旅は失望の連続だった。半島の最南端、あま海女と灯台で知られた観光の町、安房白浜はどうだろうか。それに続く平砂浦は……と、かけめぐったが、いずれも大同小異、雑石と貝殻片。これは当然のことで、この地方の後背地は、軟らかい蛋白質凝灰質泥岩である。透明石英砂があるはずがなかったのである。内房はいうまでもなく、海の汚れがひどく、それに埋め立てられて砂浜など見る影もない。

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