昭和14年に起こった悲しい事件

翌週、京都三条河原町の書店の地方出版物コーナーで偶然、千葉治平氏の著書を手にし、そこに『田沢湖物語』に「田沢湖の白砂」の文字を見つけた。それは、失われゆく白砂について深く考えさせられた。

 「田沢湖の砂浜は、昔から白浜といって名所になっていた。浅瀬がないというこの湖に、例外的にただ一箇所、遠浅の砂浜があって、それが石英砂だった。斑晶石英という岩石が永い間に風雨によって分解し、細かい微粒子になって湖岸に堆積したのだという。白浜は渚から湖水にかけて、その石英砂が敷きつめちようめいられ、静かに光って、湖水の澄明さは一層ひきたてられた。白浜の岸近くに一軒の古い旅宿があって、風呂場が汀に建っていた。歌人、結城哀草果氏は次のように歌った。

 田沢湖の 水わかしたる 風呂桶に

  白妙の砂 あまたしづみぬ」

 私は田沢湖からなにげなくもち帰った一握の砂を、あらためて顕微鏡で眺めてみた。砂粒には泥がこびりついているが、たしかに美しい砂粒である。研究室の砂洗浄機にかけて何日間も洗浄を続けてみると、カットグラスのように美しい砂粒が現われた。「これこそ田沢湖の白砂の砂にちがいない」。ひと粒、ひと粒、ピンセットで拾い出した。それは遺跡から白砂を復元する仕事であった。このことを著者の千葉治平さんに報告したところ、たいへん喜んでいただいた。この美しい白砂が一面にひろがっていた田沢湖を、私はイメージに描けないが、千葉さんは、渇水期に露出した湖底の一部で、白砂を偶然発見したときのようすを、こう書いて為られる。

 「私はハンカチをとり出して、純白の石英砂をすくった。涙があふれて仕方なかった。……私はもう一度、田沢湖の過去の姿を再現させてみようと思った。湖の四季を追ってさまよった純心な少年の目に帰り、あの青い湖水の波と戯れてみようと思った。しかし一度汚れた砂浜は、二度と昔に帰らない」

 かつての田沢湖は、湖の周辺に欝蒼と樹木が茂り、湖に注ぐ大小60本の沢から、滾々と渓流が流れ込んで、世界に誇る透明度を保ち、湖水は濃藍色だったという。ところが昭和14年、発電所建設のために湖の東を流れる玉川の水を引き込んだ。この水は浅黒沢・玉川温泉の、ペーハー1.1という強酸性の毒水を含んでいたので、田沢湖の水は濃藍色から、現在の瑠璃色に変わった。この自然破壊にともなって田沢湖はどう変わったのであろうか。往時の田沢湖を知る千葉さんの記録を読むと、身の毛もよだつ思いがする。それはあらまし次の通りである

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