リンク:鳴沙山の鳴き砂調査団


敦煌の鳴沙山

 敦煌(トンホワン)は、NHKのシルクロード特集などで、わが国でも広く知られ、観光旅行で訪ねる人々も多くなった。中国・甘粛省北西部の町で、西にタクラマカン砂漠をひかえ、西方からの旅行者にとっては中国への入口にあたるオアシスであり、古来、シルクロードの要衝として栄えた。唐代以後はしばしば沙州の主都であった。

 現在の敦煌県城の南東約30キロに、鳴沙山と呼ぶ岩山があり、ここに仏教の大石窟寺群・莫高窟(ばっこうくつ)の千仏洞があることも広く知られているが、鳴沙山とは何か。これについてNHK編の『敦煌への道』には次のように書かれている。

 「敦煌の街をぬけると一望千里の砂丘が連なっている。砂丘の主峰は背が鋭い稜角をなし、強い風が吹くと砂が飛ばされて大きなうなり声をあげるという。鳴砂山と呼ばれるのはそのためである」

 鳴沙の名称の由来について誤まった説明がなされているのだ。陳舜臣『敦煌への旅』(日本放送出版協会の記述もまた、はなはだ曖昧である。

 「鳴砂山とは、なにやらおだやかならぬ名称ではありませんか。砂が泣くのです。夜泣きというのです。砂はなぜ泣くのでしょうか。そのふもとにポプラの林の多い鳴沙山は、別名を沙角山、あるいは神沙山といいます。どの名にも沙の字がついているのです。砂とは切っても切れない縁があることは、その名前でもわかるでしょう。冬から夏にかけては-殷々として声あり、雷の如し-といわれています。おそらく風のいたずらでしょうか。砂が大きな音をたて20キロもはなれた敦煌城内でもきこえるというのです。その鳴沙山の南北1600メートルにわたる崖面に、二段、三段あるいは四段に石窟が掘られています。それはおびただしい数です。

 吉祥天 胸もゆたかに 炎踏み

    手のひらに 砂鳴る音や蓮の花

 これも音の正体が風だと書いてある。そこへゆくと、正確な記述で知られる)松岡譲(『敦煌物語』が、清代の地理書で、各国の探検家がたよりにしたという徐松撰『西域水道記』を引用されているのはさすがである。

 「鳴沙山の東南に水の赤い党河があり、山は東西40里にある。その山はまた一名、沙角山とも神沙山ともいわれ、沙を積んでこれをなす。峯轡危峭(ほうらんきしよう)、岩にそびゆ。四面皆沙ろう、背刀刃の如く、人これに登ればすなわち鳴り、足に随って頽落す。しかも時立って風が吹けばまた旧に復してしまうという、不思議な山で、そこから鳴砂山という名が出ていることがわかる。この山の東麓に雷音寺あり、山によって宇をなす」

 これを読むと、音が出るのは砂が落ちるときであり、これはさきに述べたジェベル・ナクーや、レク・ルワソとまったく共通の現象だということが明らかになる。

 そこで、さらに古文書を漁ってみたところ、唐代、880年頃の文書『燉煌録』にもっとくわしい記述がみつかった。曰く、

 「鳴沙山、州を去ること千里、其の山は東西八十里、南北四十里、高さ五百尺。悉く純沙聚起。この山、神異ありて峯は削成せるが如し。その間に井あり。沙それを蔽う能わず。盛夏に自鳴す。人馬これを践めば声数十里を振わす。風俗端午の日、城中の子女皆、高峰にのぼり一斉にふみ下せば、その沙の声吼えて雷の如し。暁に至ってこれを看れば、しょうがくは旧の如し」

 この文書は探検家スタインが敦煌石室から持ち出し、ロソドンヘ連んだという敦煌文書(大英博物館写本S5448)である。この文書を、ミュージカルサンドの文献として、イギリスに紹介したのはOfford,J.:Nature,95,[2368}65-66(1915)であった。スタイン自身も、その探検記(スタイン著,沢崎順之助訳『中央アジア踏査記』(白水社,1966)のなかで、鳴沙山についての体験を書いている。

 「砂の山をかけ上った。と、なるほど砂は足下に崩れ落ち、遠くで車がゴロゴロ鳴るようだ音をたてた」

 このほかにも、古い中国の文書のなかには鳴沙山の記録がいくつかある。宋元の時代に書かれた『事文類聚』には「陝西の鳴沙山は砂州の南なり。その砂、あるいは人足に随いて墜れば、宿を経て複た山上に還る」とあり、足で落としても、一夜のうちに山の上へもどるという。夜になると風向きが変わってもどるのだが、このことは次章でくわしく述べる。ござつそしやちようせいまた『五雑そ』などの著書で、わが国でもよく知られている明代の謝肇渕(在杭)は、治山治水技術の総元締だった関係で、中国全土を歩き、地誌も書いている。それによると、「霊州に鳴沙あり。この地、人馬の行通う砂に声ありと。鳴沙川は沙州城南に有り。この沙干糖(乾燥した砂糖)の如し。天気晴朗のとき、自から砂鳴る。その音、城内に聞ゆ。その砂、人の足に随って落ちて、一夜にまた山にのぼる」

 さらに調べればいくらでもみつかるようで、「爪州南方十里の鳴沙山にて精霊の声」(欧陽修撰『新五代史』四夷付録,引晋天福間高誨使『于*記』(講座敦煌)2巻(大東出版社,1980)とか、蘇履吉の連作の詩「敦煌八景」のなかに「沙嶺晴鳴」とあるなど(『敦煌県志』(1831年成立)中国方志叢書華北地方,第351号(成文出版社,1970年台北覆印)(『講座敦煌』1巻より)、あまねく知られた現象であったことがうかがわれる。

 砂が鳴くから鳴沙山と名づけられ、その麓には、砂が雷鳴のような音を発するので大雪音寺が建立された。

 『西遊記』には、たびたび大雷音寺が出てくる。たとえば三蔵が老婆から聞く言葉に、「西方の仏さまは大雷音寺におられ、天竺国のなか、ここから十萬八千里の道のりですぞ」とある。『西遊記』はフィクションだから、天竺国(インド)のことにされている。仏教の聖地だったのである。『旧約聖書』ではシナイ山、仏教は鳴沙山といずれも砂が鳴く現象にゆかり深いことは、いかにも不思議た一致ではある。

 だがなぜか、最近のシルクロード・ブームでは、鳴沙山や大電音寺の怪異が、まったく話題に上らない。鳴沙山は沈黙しているのであろうか。1981年に同地へ旅した友人に(半田力雄氏、愛知県在住)、その確認を依頼した。彼は鳴沙山の頂上へ登り、頂上付近の砂を採取してきてくれた。彼は「現地で砂が鳴く気配はまったくたかったし、現地の人々も、風が峯を切るときに鳴るから鳴沙山と呼ぶのだと説明した」という。鳴沙は著しく汚れてしまったようだ。彼が採取してくれた砂は、はっきりその事実を示していた。砂粒は著しく円磨された石英砂で、表面は、よく洗浄してみると鏡の面のように光り輝いた。

1991年三輪茂雄撮影

戻る