カザフ遊牧民に導かれた遠い獣道で未発表の轟沙山発見!!
日時:1994.8.10.〜24まで15日間
仁摩町役場 野木陸弘建設課長
三輪茂雄(同志社大学)尾崎都司正(オージス総研)
通訳同行 朱 元曽(日中協力センター)
8月10日(水)CA926便成田発14:55 北京着19:55(18:55現地時間)
国際学術交流中心接待部 劉 效北氏出迎え 釣魚台賓館20:10着
中国歓迎宴会(桃太郎にて)今回の訪問の目的を話した。
中国科学院自然資源綜合考察委員会メンバー
綜合計画処長 干 志弘氏 陶 宝祥氏ほか6名出席
8月11日(木)晴35℃霧あり;7時起床8時スタート 天安門広場、故宮見学、暑かった。ミュージアム展示の貝類図鑑に利用したイメージは保和殿裏の大石雕30m長
14:10北京発→ウルムチ18:45着 快適26℃ 新彊華僑賓館泊7001室
ここでショッキングな知らせ。北京からの科学院の同行者のビザ間に合わず陶さんウルムチで待機となって、カザフの計画は大幅に変わりそうと。
ウルムチ空港にて
8月12日(金)晴26℃:起床6:30(以下北京時間で記録する現地時間7:30)
10:10ウルムチ発CAAC711便→アルマアタ12:10着所要時間2時間
カザフ・アルマアタ空港前
ここでハプニング、朱さん税関で300ドルの不不当な無領収書罰金、このため一時間ほど待ちそのため迎えのカザフツーリストに会えず、朱さんやむなくカザフ在住中国人女性にタクシー手配を依頼してホテルALMAATAへ
気候は快適な26℃湿度50%、洗濯に好適
19:00ロシア語通訳2名Bekkojina Umikai Am(女性)らとホテルで調査打ち合わせ。 歌う砂丘は知っていそうだが、頼りないのでキャンセル別ルートに変更
20:00モトローラグループを呼び出し食事兼会合: General Manager A.M.Radutsky(ユダヤ系)ほか数名参加
アクムカルカンの位置も歌う砂丘も知らないが現地に詳しい人物がいるから明日ジープで案内を約束。招待の話は2人一緒ならokとのこと。
8月13日(土)26℃湿度50% 6:30起床(洗濯物よく乾く)
案内人が来るのを待つ、昼食抜き(中国大使館の話ではその案内人なら安心。この地では強盗に変身する例多しと)
13:00スタート(モトローラ社アンドレ(略称中国語がわかるロシア人)の運転で途中、マネージャー(ヤクーニン)一家と合流イリ湖下流方向に向かう。道路は凸凹。そこに地元に詳しい人物(以下ヒゲの現地人と記す:知人)がジープを準備していた。下記地図のアクムカルカン砂丘を探し当てるのが目的である。下図は今回の調査でやっと分かった正しい位置である。イリ川に面したアルナアタ北方ということしか分かっていなかった。そこでイリ川とはイリ湖から発しているのかと尋ねたら「そうだ」と答えたから捜査範囲はイリ湖からバルハシ湖までの川沿いの北約300キロ探索を開始した。(これが誤解の出発点だった。「イリ川はカプチャガイ湖から発しているのか。」と聞いたら「そうだ」と言ったが湖の上流もイリ川らしい。)ジープで現地人のみぞ知る凸凹の砂漠の獣(けもの)道を右往左往。しかしイメージにあった場所には出会えなかった。野木さんやむなくイリ川の砂採取。現地人の知人の家も2、3訪ねてパユーシチイ ペスカ(鳴き砂)は知らないかと聞くがニェート。ついに日は落ちて三日月を背にして空しく流れるイリの清流を眺めながら、「グジェ(どこ)」。日本時間で23:30、皆あきらめてイリの清流に飛び込んだ。ロシア人は月下の水泳が好きなのだ。
呆然とイリ川の流れを見つめる私
疲れ果てて19:00頃宿泊地到着。かっての共産主義訓練施設だったといい、現在は荒廃していた。レーニンの肖像が草むらに淋しく残るゴーストタウン。水洗トイレも使えずすべて草むらで果たせと。三日月が沈んで周囲は真暗闇。だが空を仰ぐと満天の星空。久しぶりに出会った本物の星空は星明りすることを思い出させてくれた。
この夜、反省ミーティングはこうだった。
することになった。パユーシチイ ペスカとは何かからはじまり、子供たちも加わって討議したところ、彼等は勘違いしていることが分かってきた。昨夜私が渡した地図はモトローラ社マネージャーの手元にあり彼等に渡っていなかったのだ。そこではじめてヒゲの原地人に質したところそこはイリ湖の西側北にあり2つの山からなり、ブーンと音がするといいだした。「イリ川の南側に渡し船があり、それで渡ったところにある。」「それだ、間違いない」。もっとはやくそれを言ってくれればいいのに、もうおそい。
「明日行こう」と言ったが「アルマアタから西方300キロにあり、道も悪くて無理だ」と言い張る。われわれは逆方向に来てしまっている。
実は彼等には別な理由もあったようだ。カザフではガソリンが入手困難だ。あまり使いたくないのだ。別途に手配する手もあろうが、この地の治安状態を考慮すれば強行は危険だとの意見が出た。「そのかわりアンドレを島根のシンポに招く。そのとき現地の写真と音の録音を送ってくれないか」との提案にアンドレは同意した。(ロシア人は人はいいが約束はまず果たされないのを承知で)。
この日の夜はシャワーもなくゴロ寝の同行4人一室だったので寝言騒動があった。朱さん「先生、行きたいなら行きましょう」これだけ日本語だった。
[注]カザフ情勢と出発切り上げの理由:アルマアタはロシア人40%あとはカザフ人。現在は経済の困窮で無政府状態に近い。税関も強盗だといわれるありさま。食事は固いパンにヨーグルト、目玉焼、西瓜の朝食。給料は半年ほど無払のままだから、働く意欲を失っている。仕事をしている人がいないといわれる。内戦前夜とも。ピストル携行のドライバーが必要とは何とも怖い国だ。
中国行きの航空便は15日(月)のあとは金曜日までない。4日もカザフに滞在するのは危険との中国大使館からの忠告があった。われわれのビザもなぜか14日になっている。これも北京のカザフ大使館の罰金策かも。
8月14日(日)7:00起床 朝食は固いパンと西瓜だけ。
11:00スタート(今日は昨日のコースをただ帰るだけ。皆だまりがちだった)
16:00 疲れ果ててアルマアタホテル帰着
8月15日(月) さよならカザフ
目の前に憧れのアクムカルカンを前にしての涙の撤退やむおえず。
8:00朝食9:00ホテルスタート(怖い国脱出のみ)
空港のそとではしきりにハットを手にしたもの請いが来る。
11:30アルマアタ発(新彊航空公司の桑 東玉氏見送り)
→ウルムチ着13:00
16:00 ホテルは最新鋭の環球大酒店1209室(空港迎え北京からの陶さんと国際旅行社 呉 峯氏)今日から北京の陶さんも調査に同行する。
19:00夕食 カラオケ
0:30 ホテル帰着
8月16日(火):11:20 新彊沙漠研究所を訪問し今後の行動計画について打ち合わせ:カザフ訪問に協力できなかったことはカザフのこととはいえ申し訳ない。厳重抗議しておきたいと冒頭に謝罪があった。三輪の『世界沙漠研究』の論文は見ていた。
周 興佳所長挨拶 通訳の朱 衛東氏(10年前北大にいた)
鳴沙山は1959年代には大きな音が出ていたことを知っているが、1970年代にはまあまあ聞こえた。1990年代になって音が出なくなった。
鳴き砂に関するレポートは中国にはない。
鳴沙に関して研究所は常識程度しかわかっていない。鳴沙山の意味について深く考えたことはない。木畳の鳴沙山群のことは、人民日報は単なる噂であり、専門家の話ではないという。「それなら確認する必要があるではないか。もし間違っていたら、われわれは人民日報に抗議するつもりだ。」といったらこれから確認してみるとのこと。
すでにアメリカでは同じ様なブーミング サンド マウンテンが発音特性を失ってしまっている。中国にはまだいくつかの優れた鳴沙が残っているので、世界の宝として残してほしいと要望した。その意味でも11月の島根シンポに是非出席してほしいと要請した。研究所側了承の様子。ただし一人派遣はできないから、2人にしてほしいと。野木さん検討すると答えた。
8月17日(水)トルファン(吐魯番)へ:7:00起床
9:30スタート約300キロを車で踏破。途中塩湖で途中下車 海抜0メートル
はウルムチは1400メートル。空の色はやはりほんもの。高度に関係ない。
15:20ホテル吐魯番賓館泊。外は暑い(この地はぶどうの名所で、種なしで皮ごとたべられて、とてもおいしい。)
17:00〜22:00 ところでなぜここまできたのか。単なる迷走か。まずはある研究所に案内されたが鳴沙にかかわりなく、ここで三輪の怒り爆発、下車拒否、それではと今度は火炎山、砂あれど鳴沙なし。案内人の誤認にもとずく意味のない車の旅だった。ただし次の救いもあった。
さいごに新彊生物土壌沙漠研究所を訪れ副研究員 潘 伯栄(Pan Bo-rong)
氏に会い自ら発見したという鳴沙山の情報がえられたのが唯一の収穫だった。 1974年新彊哈之河(吉木乃沙漠) 額木斉斯河岸大沙山:(東経86°北緯48°の位置)
意味なき火炎山遊覧
8月18日(木)気温23℃昨夜大雨、ホテル一帯停電。
(この日は500kmの車の旅、ドライバーはカザフ人)
7:00起床7:30日陶さんを混え日中緊急対策会議
このままでは今回の訪中が中味空になる可能性ありと日本側から緊急提案してロビーで全録画を宣言して開催。
1. 陶さんの役割は何ぞや
2. カザフへ中国が行けなくなった経緯を説明せよ
3. カザフからはやくひきあげざるを得なかった理由経緯を明確にせよ
4. 吐魯番訪問の目的とそれを命令したのは誰か
5. カザフ遊牧民の発見報道の真偽は
6. もし今回の訪問で嘘と分かったら人民日報に抗議する。
7. 中国が行けなかったために今回得られなかったデータを中国側からカザフと交渉して得る努力はできるか。
日本側はイラダチがあったがすべてを木畳での成功に賭けて調査続行と決定。
9:10 スタート トルファン→ウルムチ200km 逢坂でメロン食す
昨夜の雨で空さらに青く、白雪のひときわ厳しくそそりたつ天山山脈を右に見て一路ウルムチへ)
14:10 預けたパスポートを取りに環球ホテルへ立ち寄り。途中国際応接室中国旅行所へ立ち寄りカザフの嘘つきと朱さんのボヤキ聞く(迎えに行ったが、日本人は勝手に他の車をつかんで行ってしまったと)
15:30 沙漠研の趙さん同行(若くて鳴き砂に興味を持っているいい人物): 趙 景峰 (助教授)
ウルムチ発 →木畳(Mori)へ300km 木畳の人口1〜2万海抜1000m
前方の白いのが前夜降った雪に輝く天山
20:30 政府招待所(宿泊施設)着
ここで木畳県 張 衡副県長(副知事)から「木畳の鳴沙山へは数度行った。すばらしいところだ。先日もヨーロッパ人が見学に来た。なんとか観光による開発を考えたいと。明日案内する。ジープも準備してあるし、案内人はカザフ遊牧民親子だ。」と調査団一同歓声をあげてよろこんだ。これでやっと日本へ帰れる。
22:00 食事
8月19日(金)すこし寒い22℃
7:00起床(中国流もたもたで出発が遅れた。日本人いらいら)
11:00 直線距離で130キロ所要時間5時間の道無き砂漠の旅スタート
ジープはカザフのソ連製にくらべ中国製でよくない。昨日の話では2台準備するとのことだったが、一台しかない。無線もないが故障したらどうするつもりだろう。スタートのエンジンがかからず手動のハンドルでグイグイ回してやっと。方向指示器は故障し、スピード メータはこわれていて、先が案じられる。ラジエータが過熱したときには水をぶっかけての決死の荒旅だった。
轟沙山への道はジグザグで謎に満ちていた
途中休憩4回 陶さんが持病の心臓不調を訴え途中のカザフ遊牧民の家で休養待機となる。ラクダに乗った颯爽たる遊牧民2人に出会って道を聞くと、「あちら」と指差す方向に山らしきものが見えた。だがゆけどもゆけども山は近づかない。前方に突然湖が現われ船が見えたりする。蜃気楼だ。道路らしき道があるが、凸凹だから、スピードを出せばショックがはげしく内臓の紐が切れそうになる。道は分かれているところがあるが、道標はない。遊牧民の獣道(けものみち)なのである。
後部席にいる遊牧民の勘で親父が息子のドライバーにときどき指図する。大きく迂回したり右往左往するのは方向を見定めるためだろうか。やっと他の山とはあきらかに違う薄茶色の砂山らしい山体が黒色の見えてきた。あれかもとおもうが、黒い山へ向かって迂回してゆく。前に来た轍を参考にしているようでそうでもない。この頃黒い山は青空より濃いブルーに彩られ、黄色の砂山は大空の青色と間に濃紺を混じえたすばらしい美の世界を展開していた。私はどこか幻想の世界をさまよっている錯覚におそわれながら、ビデオに収めようとしたが、おそらく画像ではこの美の世界は表現できそうもない。これは絵画の世界であろうか。車はなおも直進しない。ドライバーは黒い山のひときわ険しい岩塊の頂を一心にめがけて進んでいるようにもみえる。
やがて車は黒い山の向こうに行くコースに変わった。やはりあの山の向こうか。だが突然車は再び左旋回して黄色の砂山に向かった。とそのとき、「あ、あれだ。」と皆が叫んだ。大小5つのピラミッドが並んでいる。まさにサンドミュージアムだ。エジプトのピラミッドの原形がここにあった。ピラミッドの方向へと不思議なジグザグ コースを行く。中央のひときわ大きいピラミッドも脇のも宮殿のように見えるから、最後の直線コースに入ったときには、遊牧民たちの参道を行く感動だった。車が正面の大ピラミッドの手前で止まったとき、はじめて鳴沙山の観察に来た自分に帰ることができた。宮殿に見えたには鋭い稜線をもったバルハーン(三日月形の砂丘)だっった。
17:00 現地着もう太陽は西に傾き観測の時間は僅かしかない。
18:55(現地時間17:55)測定:東経91°38′22″北緯44°56′5″
現地気温 37℃ 湿度25% 砂表面温度45℃ 安息角31〜34°(頂上)
約20m傾斜を上って数人で下降するときの音60DB(人の声80DB)
轟砂山発見にバンザイの調査団
鳴沙観測:まず麓の約20m傾斜を上って下降する中国式のいわゆる鳴沙活動開始
ブーンと唸る砂、まちがいなくブーミング サンドだ。残念ながら録音は失敗だった。とにかく壮大な音を聞いた。仁摩町役場からもってきた赤旗を掲げてバンザイ。
この頃すでに太陽は西に傾き、帰路につかねばならない時間が迫っていた。全員が頂上に登る時間はなかった。さすがに砂漠研究者の趙さんはすごい。頂上にかけ上がって観測と砂のサンプルをとってきた。趙さんによると、「指で跳ねると蛙の声がした」という。布袋の砂を叩くとブッと音を発する。これなら発音特性は抜群。全員で頂上で鳴沙活動をする時間がないのが、残念だった。しかしこの砂なら20キロ離れていても聞こえる音を出すにちがいない。自然に唸るのを聞くにはここに一週間ほどキャンプして確かめるしかない。山頂と麓のブーミング サンドのサンプル2個を持ち帰った。録音機は趙さんに進呈して録音してもらえることを期待した。
帰路は夜の獣道
18:15 帰路につく。帰路の中程で太陽は地平線へ沈み、宵の明星が代わって明るい標識になった。東には13日くらいの月が輝いていた。ドライバーは星で方向を見定め、遊牧民の親父がさらに助言していた。野生のらくだの大群に道を阻まれたり、先行するトラックの砂塵に悩まされたりで、心細くなりながら泊地に帰り着いたのは零時をすこし過ぎていた。さて夕食だが、店はどこも閉店だ。町中を回ってさいごにすでに店の隅にベッドを置いて子供たちが眠りについている一軒の店に入りこみ、無理をいって食事を作ってもらう。宿に風呂はないが猛烈な水流のシャワーで汗を流して就眠は3時半だった。
8月20日(土)
8:00起床:10:詢00 スタート ウルムチへの帰路ガソリン タンクのもれで臭がきつかった。
16:00 ウルムチ市街に入りまもなくホテルというとき、突然ガーンと激しい衝突音。「やったか」。幸い擦り傷だけでまずホッ。暴走してきたタクが横腹にくっついていた。助手席にいた女性はフロントガラスがこわれて前頭部をおさえていた。
8月21日(日) ウルムチ→北京へ移動
6:00 起床7:00 スタート 、8:45 ウルムチ発12:00北京着 北京は雨。荷物は昼休みのため出るのが遅れ、13:20にやっとタクシーに乗れた。
14:30 釣魚台国賓館 1721号室 韓国科学部長や竹下元総理の車があった。
中国では水道の具合がどこも悪い。ここでも湯をつかうには風呂2杯分位出さないとだめだ。竹下さんもこんなことやっているんかな。
8月22日(月)雨:科学院信息咨詢中心訪問(情報センター)盧 國銘氏(Director of General Office)にシンポジウムの招待状を野木将軍正式に手渡し。
13:00 万里長城(霧深くて眺望わるし)
15:30 北京にもどりスーベニア
18:30 桃太郎で劉さんほか全員揃って今回の訪問の総括報告会
三輪:「カザフ遊牧民が今日まで守りつづけてきた世界的自然遺産であるので大事にしてほしい。鳴沙というより轟沙でありこれは偉大発見である。五峰の見事な造形美に感動した。頂上では指ではねても蛙の声がすることは人を魅了するに十分だ。カザフ人の伝承を調査してほしい。と要請。」
尾崎補足:この地はシルクロードから離れており、現在まで遊牧民しか行けない特異な文化圏(モンゴル、シルクロードの中間域)で研究の空白地帯だったかも知れない。従って従来訪問されることなく残されてきたのであろう。この自然をそのままに残してほしいと考える。これを観光資源として利用する構想もあると聞いたが、すくなくとも高速道路だけは作らないでほしいものだ。
23:00 就眠
8月23日(火)5:00起床 6:00 食事 7:00スタート 9:00空港陶さん劉さん見送り:ここでハプニング 朱さんの時間勘違いとわかり、北京滞在一日延長、ホテルも格落ち、労働大厦でふて寝。
14:30〜18:00天壇見学
尾崎君1000円を元に換金それで帽子3個、コーラ4個、タバコ(マールボロ500円相当)2個買ってまだお釣が来たと感激これは彼の一つ話の種になることだろう。1元は12円換金
8月24日(水)帰国の日
5:00起床8:50中華航空CA925便で東京へ14:05成田着(日本時間)17:07ひかり253号、翌日尾崎君よりファックス 読売新聞8月10日号のコラム欄にカザフ訪問の記事ありと。今回の北京で気づいたこと。1991年とくらべ表通りのゴミがなくなったこと。
今回の旅行での予期せぬハプニングはいずれも幸運にも避けられたものであったり、笑い話だったり。記載して今後の調査にさいしての参考に供したい。
1. 中国からの同行者のビザが出ず、カザフの沙漠研究所にコンタクト出来なかった。
2. カザフ税関で添乗者が不当な300ドルの罰金を強要された。
3. アルマアタで出迎えのツーリストと会えず、ホテルへのタクシーに困った
4. カザフの治安情勢が予期せず極めて悪かった。
5. 三日月のイリ川で夜中の水泳をした。
6. イリでの宿泊は訓練施設のお古で老朽化していた。
7. ウルムチの食堂出口で三輪が溝に落ちて病院で手当した。
8. トルファン行は目的不明の不思議な旅だった。
9. 轟沙山への往復にジープ一台で無線なしは極めて危険な行為だった。
10. 陶さんの心臓病は驚いた。さいわい遊牧民の家があった。
11. 木畳からの帰途ホテル直前で交通事故があった。
12. 砂漠から帰ったとき12時すぎで、食堂を無理して営業させた。
13. 木畳からの帰途砂漠研の車のガソリンもれがあった。
14. 北京で最後の報告会に長期停電がありろうそくのあかりだった。(第一次調査で沙坡頭の沙漠研究所での歓迎会もローソクだった。)
15. 北京から帰国便にのりおくれた朱さんのポカ。(猿も木から落ちる)
16. 中国から日本への電話は非常に高価につく。呼び出し時間も料金に入るので、
とくに役場は早く電話に出てほしい(野木将軍のボヤキ)。
この砂山に出会えなかったのは残念である。国情回復を待つしかないが、いまのところ観光公害が来るおそれもなさそう。10キロ離れたイリ川対岸で山の歌を聞くのを将来の楽しみにしたい。
ポチカレフ論文の記述
”そよ風によってその砂丘は自然に歌いはじめ、そのにぶい音は川を航行する船のハムを想起させ、その音は10kmの距離から聞くことができる" とあることについて是非確認したい。