タラタンタリザータス(日本のゴットン篩)
ふるいを粉屋に任せると粉屋がごまかすから、西洋では篩の仕事は粉屋ではなくパン屋の仕事だったため機械篩の発達が遅れた。長かった中世のヨーロッパでパン屋での粉のふるいはシンドイ仕事だった。 古い時代の風車ミルの絵に篩がないのはその証拠である。粉屋の仕事になったのはかなり後世のことだった。
1662年頃の粉屋はふるいなしだった。(J.Reynolds: "Windmills and Watermills"
このことについて、ベソネットの著書(Bennet,R.,Elton,J."History of Corn Milling"(1970))に詳しく述べてあるので、以下要約して紹介する。穀物の所有者は粉屋に粉をごまかされないよう、粉屋で粉に挽いてもらってから、家にもちかえってふるい分けた。村の共有の粉挽き風車小屋ではもちろんそうであった。パン屋でも同様だった。イギリスでは1267年にハン屋がふるい分けに3ペンス半を経費とすることを法律上記めた。またエドフード2世(=六四-;三七)の頃には、パン屋は半ペニーが許された。。パン屋が粉屋に粉砕のために支払う支給額を克明に計算したヘンリー7世12年(1497)の記録がある。
「小麦一クオーター(穀物の容積単位で、約八ブッシェル・約281リットル)当りの。パン焼きについて、炉と薪、臼屋、2人の職人、2人の小間使い、塩代、イースト、蝋燭、ふすま袋代、経営者自身、その妻、犬、猫。麩は処分する。小麦一クオーターにかかるパン焼き労賃2シリソグ」と実に詳しく項目があげてあるのに、どこにもふるい分けは見あたらない。
篩(sieve)に対する通俗古語はナメ(teme)だった。ふるい分けすれば余分な儲けになる時代になり、篩機械が発達するまで、手篩は粉屋に欠くことのできない道具となった。ベンネットの名文を引用すると、「昔の粉屋は、物思いにふけりながら、穀物を彼の原始的な篩で、長かった中世を通じて揺りっづけながら、実は、粉砕プロセスの偉大な成熟すなわち、段階的製粉法(後記)への道を歩んでいたのである。もっとうまい工夫はないかと考えながら、かれらは激しく身をいれてふるいつづけた。疑いもなく彼の熱心なそして疲れを知らぬ烈しい活動はまさに『ふるいに火をつける(setting the Thames on fire)』だったことだろう。かかる情熱的な労働について思うのは、なまって、よく知られた諺『テームズ川に火をつける(setting the Thame on fire)』であろう。この諺は他に説明のしようがなく、古き時代の遺物である。」(注参照)
ベンネットの著書には、さらにおもしろいことが、書いてある。1499年に編集された本には、ふるい分ける(bultynge)という俗語の説明に極めて特殊なタラクソタリザシオ(taratantarizatio)をあてている。ふるい分け(bultydとかto bultter or boulte meal)はタラタンタリザタス(taratantarizatus)と書いてある。これはたぶん筋の中で穀物がタソタラ鳴るのを音声的に表現したものだろう。」
現在の辞書では、ランダムハウス(Random house)の英英辞典に出ている。これはわが国で、コトコトコットンの音から、コットン篩、ゴットン篩、トンコ篩、ガタガタ動くからガタ篩などと呼ぶのに似ている。
1502年篩設置(オーストリア)袋状の篩(六角篩か)そして 現代のロール製粉のスタート、1588年イタリアのRamelli発明1820スイスで試験1870オーストリアの貴族が完成。ピュリファイアは1854年アメリカのWestrup発明 へと続く。
(東洋では) 綟織篩絹は漢代の中国で発明だった:中国での機械ふるい『閘口盤車図』(965)(530年にさかのぼる景明寺)は西洋よりはるかに早い。
[挿話]馬毛の篩網は1940年代まで香川県仁尾町辺で織られ軍用火薬篩として大量に生産されていた。現在でも京都で職人が健在で、食品の裏漉用に重用されている。(川端丸太町喫茶あみあみ)水嚢師という。