行商四代
田中宏(田中三次郎商店社長)
私の家は代々水車製粉用の篩(フルイ)絹を行商しています。曾祖父平田市郎は明治10年、それまで提灯の絹と製粉用絹網の兼売を止め水車小屋の製粉工場の絹網専業に切替えました。九州一帯をくまなく、約1ヶ月単位行商して廻り、「旅籠(ハタゴ)のない村は、お客様宅に泊めてもらい宿泊料として代金は商品代の半分を支払う事」と行商日記に書き記しています。初代は大変マメな人で、水墨画の心得があり、実に丹念に川沿いに点在するお客様の位置を書き込んでいます。随分と働き者だったようで、お正月の二日目から山越えして行商に出掛けていますから、結構当時も競争が激しかったのではと想像されます。
初代の行商日誌『水車巡路道詳細覧圖』(上図)は偶然から日の目を見ました。離れの2階は階段がなかったので、私が小学校上級生のとき、倉庫の2階を整理するように母から命ぜられ、あまりに古い資料が多いため袋のまま2階から投げ落として燃やしたのですが、夜中の雨で火が消えたため、1つの俵がくすぶっただけで、焼け残ったのです。この『水車巡路道詳覧圖jは、このような偶然から、その後我が家の最も古い資料として大切に保存されることになりました。事務所は明治12年(1879)初代市郎が節絹(SILK BOLTINGCLOTH)を本格的に売り始めたころ建てたものですが未だに健在、大工さんの話によると「土台も未だしっかりしているし木材も大きいのであと40年や50年はもちますよ…」とのこと。多分5代目の智一期も使うと思いますから通算150年以上となり、 日本でも珍しいと評判です。SWISS SILK THALと最初コンタクトしたのは1979年だったと思います。当時節絹メーカーはNBC工業(当時はNIPPON-NAKANO BOLING CLOTH)一社だけでした。外国勢はモノダー(MONODUR)だけでしたが、太陽製粉の古賀社長から「ドイツの製粉学校時代にNYTALという商品があり、これが製粉用網では世界で主流になりつつある。今の内から手掛けておいた方が将来きっと得になるよ…」とのアドバイス。早速SSTに連絡。翌月にはG.C.HOHL氏より「韓国SEOULに出掛けるので福岡に立寄りますが時間がないので空港で会いたい」との返事。空港のVIP R00Mを2時間借りて最初の商談が始まることになったのです。私共の会社が世界に目を向け始めたのはこのホール氏との出会いからです。世界の状況、東南アジアの現状をトツトツと話して下さり、世界への窓の開け方を教えてくれたG.C.HOHL氏の親切に本当に感謝しています。
取引を始めて驚いたことがいくつかありました。スイスからもらったシルクのサンプルカードは、子供のころ父親から見せてもらった黒地に金色の文字のスイス サンプルカードと全く同じ。得意先の工場長にDUFOUR(デュフォー)のサンプルカードを見せたら「懐かしいマークだ。戦前(50年前)中国の青島工場で働いていたとき、すべてこのトレードマークのシルク。最高級で非常に高価だったと記憶している…。40年後また日本でDUFOURに会えるとは思わなかった」と感激しておられました。
私共がプランクトンネット等、水産増殖用器材に力を入れ始めたのは32年くらい前からです。義兄が水産業をしていましたので、水産試験場等に知り合いが多く、紹介されて訪問する機会が多くなりました。ネット以外にも色々の開発商品を頼まれることが多く、ポリカーボネートタンクや魚類標識のTAG等ヒット商品にも恵まれ、海外の展示会に年4-5回は出展出来るようになり、会社の知名度も上がってきたのは幸運でした。現在、当社は社員12名約10億円を売り上げますが、60%は水産関係です。 2代目の田中三次郎は嫁のジュンが篩絹業という家業と一緒に嫁いで来たため、荒物業から篩絹屋に転職する羽目になったようです。実にのんびりした方で、 約40H離れた製粉工場に自転車で配達に行き、日が暮れるのも忘れて将棋を指して夕方アタフタと帰っていったとの話です。
父直記は3代目になりますが、母の話では随分とシマリ屋さんで「無駄」が嫌いな性格でした。また、一年中、日本全国にダイレクトメールを送り、自転車や列車は効率が悪いとオートバイ(単車)で行商を始め、大成功しました。家が一軒買えるくらい高価なオートバイでしたが、道も舗装道路ではなかったせいか、山の中で故障したりチェーンが切れたり、今では考えられないような苦労も多かったそうです。父は終戦の年、昭和20年2月に腹膜炎を起こし急逝しましたため、その後は小学校の教員だった母が学校を退職 して家業を継ぎ、全国を行商、15年間私が大学を卒業するまで懸命に働き、私にバトンタッチしました。気の強い女性で「前を見て進め。振り向くな!」が彼女の哲学でしたが、83才で亡くなる時「すばらしい人生だった。文句なし。」と話していましたから、苦労の中にも充実した人生ではなかったかと想像しています。今年6月SEFAR AMERICAで一年間お世話になった息子が帰国。5代目のスタートです。ここ120年、業績も順調に伸びてきましたが、21世紀はどのような会社になっているか、5代目智一期(TOMOICHIRO)の活躍を楽しみにしています。