信玄と臼
天正年間に記されたという『甲陽軍鑑』の品第40上に「信玄が若き時,鷹野へ出て在郷の家を見つるに,石臼と云物は,種々の用にたて共,百姓さへ座敷へはあげぬ也。扨又茶臼と云物は、茶を引一種なれ共、是は又侍の所にて、一入馳走いたす。信玄が見たては、家康が無能は、茶臼(なり)、氏政・氏真手跡のよきと哥の作は、ただ石臼のごとしと信玄公の御批判たり。」(磯貝・服部検注中巻380頁)
『甲陽軍艦』は江戸時代初期に編纂された軍書で、武田信玄・勝頼の二代にわたる、事績・合戦・刑政・軍法のことが記されている。江戸時代「本邦第一の兵書」といわれ、武家の教科書とされたものである。引用した部分は天正3年(1575)に、武田家の名将高坂弾正昌信が記したとされている。しかし異説があって『海録』一巻四ノ六の23)によると、「甲陽軍艦は近世の書にて、小幡勘兵衛景憲が作なれども、已が作といひては、其頃人の信ずまじき事を恐れて、高坂弾正が作たりと偽りこしらえたるもの也。されば軍鑑に載る事、其時代違へる事ども妄説多し、信用し難き書なり。」とし、ほかにも詳しくこのことを書いた文書があることを指摘している。『松屋筆記』巻七五の15にも見える。これについて、現存するいちばん古い明暦版を所蔵され、この方面の専門家である上野晴朗氏におききしたところ、次のようにお手紙でご教示下さった。「この軍鑑の記事をどう解釈するかは大変微妙で、いわゆる根本史料ではないことは確かである。内容も戦国の歴史を非常に.精確にとらえているところもあり、フィクションのところもみられる。いわゆる事実関係(日時.場所の記載)は信玄のことを書いたところは間違いかすい分ある。しかし二、三年遅れているとか、日をとり違えているとかいった記載方法で、大筋は合っているところが多いと思う。『甲陽軍鑑』は小幡勘兵衛作というはいい過ぎで、高坂弾正その他の遺記を景徳が編集しなおし、集大成したとみるのが妥当である。実録とはいえないが、必ずしも荒唐無稽でもない。」もし本書が石臼について天正年間の事実を正しく伝えているのであれば、一般百姓にも粉挽き臼が普及していたことになる。