白隠禅師の臼挽き歌
おたふく女郎粉挽きうた
白隠禅師(慧鶴)は貞享2年(1685)生まれの駿河の人。終生権力者に近ずかず、農民の中に生きた。諸方を歴参し、西は愛媛から東は福島まで全国を行脚した足跡は『白隠禅師行脚法施総覧図』にまとめられている。当時の交通、宿泊事情の難儀を併せ考えて、その労苦がしのばれる。禅師の作と伝えられる「おたふく女郎粉引歌」、「主心お婆々粉引歌」はよく知られており、その独特の絵からも、禅師の風格がしのばれる。
「おたふく女郎粉引歌
「女郎(じよろ)の誠と たまごの四角
みそかもそかの能い月夜
天じゃ天じゃと皆様おしゃる。てんのとがめもいやでそろ。文のかずかず恋ひこがれても、わしは当座の花はいや。数の男のおもひもこはい。見目の好いのも気の毒じゃ。器量好しめと誉めそやされて、男ぎらひのひとり寝を、命取りめと皆様おしゃる。わしは命はとらぬもの。那須の与市は矢さきで殺す。おふくが目もとで人ころす。かずの殿子はかぎりもないが、わしがいとしはただひとり。婆々が粉引歌はおもしろかろが、ふくがしらべは知りやるまい。知音どしなら歌ふもよいが、やぼな客には御遠慮めされよ。」
この先は急に難しい字に変って、仏法の教えに入るが、決して困苦しくない名調子がつづく。「帰命頂来七仏伝来。我等の親玉釈迦牟尼如来も。僅と聴くより首だけはいり。恋にこがれて命も抛ち(なげうち)肝心要の小歌の文句を,老男さん、老女さん、皆様聞ない。諸行は無常じゃ、是生滅法。生滅々已で寂減為楽と。有ってもしれぬで弘法大師が。いろはに.ほどに解て置かれた。夫でもすめずば樗木連(ちよぽくれ)坊主が。大小取雑しやべるをきかんせ。真に浮世は墓ないものでな-…」まだつづいて思わず一気に読み通してしまいたくなるが、長くなるので引用はここまでにする。
なお、おたふく女郎が粉挽きする絵に、抹茶の茶碗と茶筅が添えてあるのは、粉挽き臼との対照で、ちょっと不思議な気がする。京都・金剛院には幾種類もの「うすひき歌」文書が保存されているが、そのなかには,粉挽き臼が,茶臼に変わっているのもある。いずれも禅師の筆か,写本かはわからない。