リンク:夢窓国師像http://www.shokoku-ji.or.jp/jotenkaku/person/muso_soseki.html


日本最古,夢窓国師愛用の茶臼 (四国・高知市)http://www.shokoku-ji.or.jp/jotenkaku/person/muso_soseki.html

ボチボチ仕上げの美しい肌夢窓国師の茶臼  石造美術研究者,川勝政太郎先生から,「高知の吸江寺で南北朝期の茶臼を見た」と便りをいただいた。1977年5月18日現地訪問。ここで吸江寺の茶臼を挽かれたのであろうか。高知市の東南に標高145mの、五台山がある。五台山公園にはロープモノレールがあり三十一番札所、竹林寺で有名である。この山の麓、さいきんは新興住宅街に埋まって訪ねる人も少ないが、五台山吸江寺は、古くから有名な寺であった。文保2年(1318),鎌倉の北条高時の母、覚海夫人が,夢窓国師を鎌倉に迎えようとしたとき、国師はそれを嫌避してここ、五台山麓に庵を結んだ。茶の湯にゆかりふかく、当時盛んだった「闘茶」の遊びをけしからぬとし、正しい茶の湯を普及させたことはよく知られている。お寺までたどりっくのにかなり苦労した。近所の人にきいても、竹林寺はわかるが吸江寺を知らぬ人が多かった。山麓の少し小高いところに、古めかしい石垣と石段があった。庭は文化財として保存されている。茶臼は木箱に収納されていた。形態上は、ごくふつうの茶臼であるが、上臼側面に次の刻銘があった。     「施八龍 土左国五台山吸江庵臼也貞和五年丑巳十一月廿五」 最後の日の字は下臼面下に切れている。これは上臼がすり減った厚みを示している。その分を10ミリと見ても過大ではなさそうだ。貞和五年といえば1349年、6百数十年前の南北朝期にあたる。筆者がいままでにみたうちで最古の刻銘である。これは夢恵国師の晩年に当り、国師が自ら使ったものであろう。上白の高さは12.5cmであるが、これにすり減り分を加えて22.5Bとすれば(上臼高さ÷臼面直径=0.70である。石質は砂岩と思われる。上臼重さ9.0L。受皿部側面は漢陽寺などに似たボヂボチ仕上げである。受皿およびその上部と上臼側面下部約1.5Bは漆のあとがある。挽き手穴の周辺には子持菱模様がある。上臼の上面は下臼面よりもわずか(約2@)大きくして、上部が細くみえるのを避けている(美意識)。溝は周縁部に達している(これは室町初期を示している。G目は8分画10溝で、副溝間に平行に、浅い溝があり、これを数えると20溝になる。受皿部下面および基台部側面にはきわめて美しい叩き仕上面がみられる。筆者はこれをボチボチ仕上面と名づけているが、古い時代の茶臼にみられる手法だ。石の研磨面も美しいが、風化した大自然の石肌ともいうべきこの仕上面の美しさはまた格別である。その肌ざわりもまたすばらしい。研磨した石の肌に触れると冷たいが、ボチボチ仕上面は石特有の冷たさを感じさせない。この仕上面は室生寺の茶磨にあった。受皿および上臼の側面の上部と下部それぞれ約1.5Bは粉が付着するので、黒い漆をぬっている。もちろんいまはその痕跡をとどめているのみであるが、往時の姿を想像して、南北朝期の美を目のあたり見る思いであった。

後日談:実はこの臼には後日談がある。「この茶臼は明治の文学博士,理学博士寺田虎彦博士のもとにあり」と地方史に書かれていた(高知女子大の考古学・岡本健児先生による)。ひととき「粉体」に興味をもった寺田虎彦博士のもとにいっていた。生家は高知市内、小溝にあり、当時、邸趾の整備中で、茶室が復元されていた。茶臼の数奇の運命である。

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