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'西洋で世界最古とされているウラルトゥの石臼にリンズがあった事実の重要性

 ここでウラルトゥについて少し調べておくことにする。地図を見るとユーフラテス川の上流域で現在のイラクの北隣にあたる。ランダムハウス百科辞典("The Random House Dictionry of the English Language")によると、ウラルトゥ(Urartu)は紀元前一二七〇-七五〇年にあった古代の王国で、トルコ東部のヴァン湖(Lake Van)のほとりにあり、しばしばアッシリアの侵入をうけた。岩村忍著『人類文化史-西アジアとインドの文明』(講談社-昭和四八年).によると「ウラルトゥ」は山脈地帯に住み、フーリ人と関係があると思われる。アッシリアの碑文には紀元前一三〇〇年頃現われ、紀元前八○○年代の終わりに統一王国が成立した。ウラルトゥは、険しい山岳地帯に住み、アッシリアは徹底的な打撃を与えることができなかった。ウラルトゥは紀元前七〇〇年代には、東方のウルミア(レザィエ)湖地域まで支配下におさめ、イランと西方の貿易路をおさえ、西方ではシリア西部に進出して、アッシリアを包囲した。ところがウラルトゥは紀元前七一四年、北方から襲来した新しい遊牧民キンメリ人によって撃破され、一方ではその機に乗じたアッシリアに攻められて、ついに屈服した」と書いてある。このころは農耕、金属の技術もかなり発達していた。「発掘された臼はこのウラルトウの、東方アナトリアにあるヴァン湖(Lake Van)のまわりの、よく知られていないカルディース(Khldis)居住地にあり、ウラルトゥという、ギリシャからは非常に遠く隔たったところにあったものであるから、それは西ヨーロッパ製粉発達線の完全に圏外にあったと思われる。」とストークは書いているが、このあたりは容易に納得しがたいところである。
 ウラルトゥ臼の存在に困惑し、ギリシャ発生説を通したいために、完全に圏外といった可能性もある。彼のいうギリシャの自由精神に匹敵するものがあったことを言わなくてはなるまい。そのことは別にして、ストークはこれを非常に高く評価し、次のように述べている。ウラルトウにも、この発明のた差欠くべからざる、彼のいうギリシャの自由精神に匹敵するものがあったことを、いわなくてはなるまい。そのことは別にして、ストークはこれを非常に高く評価し、次のようにのべている。「ヴァン湖型のものはただ一例のみが従来知られている。ウラルトゥは、アッシリアの王シャルマネーザー三世によって征服されたのであるから、紀元前八世紀以後ではありえない。目立してない点以外は後の手挽き回転臼とよばれる上臼のみごとな一例である。後にリンズ(rynd)と呼ばれ、台の上に上臼を支えた器具のあとも上臼の下面にみられ、またその上臼は下臼を貫通した軸の上端にとりつけられていたことも示している。これは粉砕物の細かさを調節するための簡単な方法であり、ずっとあとの時代に出てくるものの先どりである。ホッパーの側壁にある小さなハンドルの孔は、手でまわしたものであることを示している。早期にしかも圏外の地域での技術的完全性の故に、この臼はもっとも注目すべきものである。このようにウラルトゥの臼の存在は興味深いものがある。ただ問題なのは、発掘が進んでいないためもあろうが、ただ一例しかないこと、遷移形態も不明な点で、ここの発明なのか、さらに発明地は別なのか、今のところ全くわからない。いずれにしても人類の回転運動の発明史の源流はどこかという、技術史の核心にかかわる問題であり、ギリシャ以前に、それに匹敵するような技術的発明を生んだ文明が、滅亡した民族という、興味津津たる課題を含んでいる。

上記岩村先生は京都に先生ご専門の学会があったおり、京都の木屋町のお宿に伺ったことがある。「ウラルトゥに興味を持つ人がいるとは思わなかった」と話された。
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