中国鳴き砂調査団詳細メモ (旅行記)
調査期間 1991年10月9日 〜24日 全長10000キロの旅
同志社大学 三輪茂雄 同行 仁摩町役場経済課長 岩瀬昭俊
通訳 徳寿工作所研究員 王 勇
9日:14:55成田空港発 中華民航機CA926 所要時間4時間。18:00大陸が見えた、巨大な河、区画された土地
17:40北京着 入国検問の女性から中国語ではなされて、あわてた。
友誼賓館泊(市街はスモッグか霧状のかすみ状態。 陳 *Chen Hao氏、中国科学院沙漠研究所 工程師(全行程案内員)
10日 6:30起床:10:00万里長城、故宮博物院、天安門見学、定陵(漢白玉を見た:この石唐茶磨の石では:珪岩?)
18:00宿へもどる
中国煤炭科学研究院煤化学研究所:王雨Wan Yu氏 (著書『臼』贈呈)
(今後の研究について何でも連絡引受け、おおいに鳴き砂に興味。衛星放送で寅さんを見ている)
11日 6:00起床:7:30朝食時(王 雨さんに碾磑調査メモ渡し)。中国科学院考古学研究所訪問(受け付け脇に碾磑があった)、事前連絡がなかったため、情報えられず帰る。
11:30胡宮宮殿:巨大な門がほぼ1キロおきにあり、中国の壮大さを実感する。
13:00天安門前広場で昼食16:35北京空港発(地上はスモッグのためか見えない)
18:35包頭空港着(三日月が印象的)
19:17ホテル着(包頭青山賓館)鳥取大学名誉教授遠山正瑛氏に合う。
12日 6:00起床 園周科技研究所所長 呉連 (女性)さんの案内で市内公園見学(雨300ミリ町の美化につとめている。木と花200種類くらい育成。
10:00車で鳴沙現地へ
11:30銀肯(コウ)沙湾(響沙湾泣き砂湾)入口(空青い)遊覧バスが着く
観光バスがぞくぞく、入口(赤旗)には料金所も
ここは人民日報1991.6.25号に 周 宏氏の記事で中国三大鳴沙の一つとして下記のように紹介されていた場所である。
内蒙古伊克昭盟境内庫布其沙漠東端の銀肯沙湾は
銀肯沙湾高数十米 遊人攣上沙丘頂
然後坐在沙子上往下滑 耳田半便響起陣陣轟鳴琴
其聲猶如飛機或汽車馬達轟鳴 而且下滑速愈快響聲愈強
12:30銀沙山頂:砂はガラス容器でかすかにヒー、砂は細かい。雨のため砂層下部がぬれているので鳴きはわるい。 沙湾と呼ばれる弧状の砂丘で奥ははてしなくつづく。その一部だけに巾約200mにのみ鳴沙が存在し、その他は普通の砂である。沙湾の姿は海岸の鳴き砂浜にそっくりで、海の代わりに風がある感じ。風生鳴沙の成因を実験的に実現する方法を考える場合の参考になりそう。テレビで知って最近観光客がくるようになったので、鳴く部分を囲って入場料金をとっている。中国人観光客団がいたので、話かけてなぜここにきたか、など聞いてみた。テレビで見た。でも音しない。
14:00包(パオ)のある響沙湾接待所(事務所)でモンゴル系の係官に聞く。 「こまかいことは係が不在だからわからない。ここの鳴沙に関する文書はある。 高さ80m巾200m、夏頃がもっとも鳴き工合がよい。100mくらいの場所がもっもよく鳴き、飛行機のような音だという。」
16:00呉さんがあいさつにきた。
13日 9:07包頭汽車駅発。途中荒涼たる山岳をうしろに控えた農耕地帯が限りなくつづく。絶景というより恐ろしい景色。
羊、牛、人、住居がまばらに点在する風景にみとれる。
とうもろこしを屋根に干した屋根多く、畠に塩の析出も著しい。
12:55 黄河に沿って進む。14:30大注通過、左に黄河が見える。鉄道の南向点付近で風景が変わり、並木が遠い。15:00荒野がつづく。人家なし。塩もなし。まもなくまた人家が出て、ホッとする。
15:30鳥海通過 土饅頭(墓地)散在、はげ山累々とつづき、工場散在、沙漠地あり。煙突の黒煙もうもう。車中食堂で日本人に出合う(群馬県立歴史博物館岡部 央氏)
16:50内モンゴルから出て、寧夏回族自治区に入る。
17:00賀蘭山 このあたりゴビ状(砂轢まじりの地)、水害の跡だ。
17:30銀川着 寧夏回族自治区科学委員会 許蜀処長が迎え
18:00食事後市場見学
14日:6:00起床 湯のいれかえらしく、中国語でスイセンシャンシャンスイシーと聞こえた。わからないまま。
11:56銀川駅発(中衛へ)
途中次第に豊な地面がおおくなってきた。中国4番目に大きい勝格黒(トングリ)沙漠(九州の2.5倍)が見えてきたこの南東が目標の沙坡頭という。
15:00中衛駅着 沙坡頭/張継賢 副所長(迎え) 土壌専門
市街を出ると沙漠が迫って見えてきた。ここは前述人民日報1991.6.25に 寧夏中衛県境内の沙坡頭 其沙丘高度也有好幾十米
但遊人在下滑的時候、 聴到的卻像有人在撞撃巨鐘、 以致自古就有”
沙坡鳴鐘”的伝説(鳴鐘の伝説あり)
15:30沙坡頭(サパトウ)招待所着:中国科学院沙坡頭沙漠研究所
写真説明:研究所前には「熱烈歓迎」の横断幕。人物は同行した岩瀬さん
同氏の談によると、鳴沙は高さ300mで、さいきん有名になって、人が来るようになり、発音特性がわるくなった。青銅峡ダム完成により「寒上江南」を達成した。年間降水量200mm砂丘最高温度37度、北西風が強い。
16:00〜18:00鳴き砂の山を見にゆく。途中「あ碾磑だ」と王さん、まさに吉兆、調査成功うたがいなし。50年前製作、6分画の砂岩製下臼、600φ150h棒のつけかたは、観世音寺式。幸先がよい。南に黄河ありて、豚の浮き舟あり。
鳴き砂山麓までゆき、現地の監視員のおじさんに砂山を特別な方法で下って発音させる方法を教わった。珍しい方法だが、たしかにウオンウオンと鳴く音を初めて知った。手をあわせるようにする方法でも鳴くという。当日はだめだった。
黄河を見下ろす砂山頂上
18:00 蘭州沙漠研究所副所長らとともに夕食。おおいにこの調査団に関心をしめされた。はなしが弾み、ウンウンとうなずきながら、詳しく王さんの詳しい説明を聞いて下さった。王さんがよく勉強しているので、黙っていても説明は続く。最後には調子にのって、「21世紀は光は東方より、百年計をタクラマカンの砂で作りたい。」といってみたら、それはすばらしいと合意。砂時計だの、鳴き砂などと役に立たない研究をどうおもいますかと問うたら、役に立たない研究こそ本当は役にたつのだ。中国では国の予算の関係でそうはいかないが、日本はがんばってくれと。
15日:6:00起床。8:00〜11:30いよいよ観光用の駱駝にのって、鳴き砂山頂上まで上がる。鞍の上にあがると駱駝は長い首をまわしてどんな奴かと見る目がかわいい。しかし砂丘にさしかかると足が砂にめりこんで歩きにくいようだ。 頂上には、鳴沙鐘シンボルとしてあり、これが昔からよく知られた鳴き砂だたことを示していた。
(注:王さんの書物によると鳴沙塔が中寧県にあり西夏時代建、八角形7層、高さ20mという。是非訪問してみたい。)
観光客用の入場料を取る事務所もあった。一日1000人来ることもありと。鳴き砂山の上には鉄道が通っている。再び駱駝にのって砂山を下りたが、ゆれて落ちそうになる。下に下りて鳴沙部でかすかな鳴き音を録音した。
中衛文史資料2集1988年刊に当時90才の老翁の記あり「沙坡斗賛」
砂山からおりてから、豚の皮袋の舟で黄河にちょっと出てみた。先に見た碾磑の持ち主のおじさんを訪ねたが、留守だった。
12:00昼食。14:44中衛発(汽車)
汽車は沙坡斗の上を通る。 鉄道の南側に、沙漠研究所の沙漠との斗いのあとを見る。
17:30再び荒涼たる沙漠がつづく。
18:00景泰通過
21:58蘭州駅着(ここは賑やかな雰囲気あり)。 お迎えあり。市場見学(活気にあふれている)
23:15金城賓館(Jun Cheng Hotel)に落ち着く部屋番号1012
ホテルの室はいままででもっとも豪華でボーイ、ガールの愛想もよい。ただしバスに底栓なく催促したが、排水不良で櫛差し込みで解決。ボツボツ中国食にもはげ山の絶景にも飽きてきた。味噌、醤油、緑茶、ごはん、梅干、おしんこと日本人2人でこぼしあう。
16日6:30起床
8:00朝食
9:45中国科学院沙漠研究所会議室で会合、カタログで双方が説明
周 広立副所長、 戴 楓年(鳴き砂研究) ここにも鳴き砂研究者がいた!!
陳 広庭(自然地理)、周 紀侠副所長
沙漠からの国土侵略と国をあげて斗う姿を見た。アメリカ、ソ連、中東、アフリカどこも同じだ。もはや人類は戦争などやっている時代ではない。中国では基礎研究をやる余裕がない。日本に期待したいと。今後の直接の研究上の連絡は張 周 紀侠氏へ。鳴き砂のメカニズムと文献一式送ること約束した。
12:00ホテルにもどり家へtel.陳さんの美人の奥さん、子供さんと昼食をともに。 昼食のとき歌(羊飼いの歌のレコード中国語、青海民謡)がながれていた。
美しい笑顔 お日さまのよう
クリクリ輝く目は お月さまのよう
羊にでもなって 一緒にいたい
毎日その鞭で わたしを叩いておくれ
(昨日、沙坡斗の駱駝引きの娘を想いだす。)
18:00:昼の会合の中国メンバーと夕食。 昨日の沙坡斗同様に話がはずみ、タクラマカン一世紀砂時計や、沙漠のやまに大円筒穴を掘って風生鳴沙製造計画の夢も出た。皿が30近くも並ぶ豪華料理。夜はすこし寒いのでふとんを持ち出して寝た。
17日 7:00起床:10:00車で蘭州を出る。
12:00永清県劉家峡で昼食
回族美人の店できしめんに似た麺を食べる。茶に桂園の実が入っていた。
市場で老人2人がやきいもを売っていた。老人の顔がすばらしいので写真撮影
子供の写真もとったら、サンキューと来た。やきいもを頬張りながら市場散歩。
14:45山岳地帯を横切って車で走って黄河ダム見学(途中の枯れ川で石ころ採取)
帰途、山に洞穴が多いのが目についたが、それは農地改良のための砂利採取という
ここで火打石が話題になった。燧セットをもってくるべきだった。
17:00蘭州飛行場前 第一賓館着:トイレ流水バルブ不調、自分で修理してつかう。夜寒く隣のベッドの毛布を重ねた。
18日 :5:00起床。7:30蘭州飛行場離陸
9:45敦煌空港着:迎え 屈 建軍(Qujanjun)蘭州沙漠研(敦煌で鳴き砂研究)
10:00敦煌賓館(Dunhung Guest House)着: 日本世界鳴沙調査団 腕章出来
12:00昼食 屈さんから研究報告をもらった。(王さん預け)
14:00敦煌博物館見学 (碾磑はなかった)謝? 生保氏案内 胡開需氏案内
敦煌民俗事務所訪問 (博物館長)
ここに50年ほど前の碾磑があったが、それは磨(mao)に過ぎなかった。 鳴沙山へ(月牙泉)ここは観光用で砂は鳴かなくなっていた。鳴沙山の位置は唐代より不変と いう。
18:15ホテルへもどり、屈さんを交じえて夕食(長野からの観光客がいた)
敦煌は常に私の研究の原点だった。
鳴沙、碾磑、仏陀 今ここにいる感激 Now I reach the origin
My mind is junping
May be Budda lead me here
このメモを2人の中国人に渡した。
19日 7:00起床 7:45出発 (道中 車のなかで鳴き砂音頭をうたった)
砂が鳴く鳴く砂が鳴く
琴姫さまの 琴の音を
今に伝えて 幾百年
ここは島根の仁摩の町
9:00現地:一応観光ルートの莫高窟を見学(ここは写真撮影禁止区域で、カメラを預けそのご屈さんの案内で再び莫高窟へ別ルートから入り、非公開の仏像一体を拝観。まさに仏陀降臨を思わせるすがすがしさに感激。仏は頬に紅がさしていた。正面の建物の頂上まで上がってから、砂丘登りにはいった。ここからが本物の鳴沙への道である。ここは完全に閉鎖されており、外国人で入ったのはあなたがたが初めてですよという。人が入り込むと、鳴き砂はすぐに歌をやめることを充分知って、必要な手だてをしているのである。このことは、日本でも学ぶべきことであると思った。観光収入がどうのということをいう人はいない。
ここには駱駝がいないので砂丘登りは自分の足でゆくしかない。砂丘の角度は40度を越える箇所がおおい。ここに来ると砂が一足ごとに崩れるため、はなはだ登りにくい。私は若い連中から少しおくれて登るから、時折砂丘の山に先行の人たちが見えなくなる。足跡をたどっていると、突然足跡が消えている箇所がある。心細くなってくる。あと少しで頂上というところで、先行隊に追い付いた。ここで一服だ。携行した水のうまさは格別だ。
さていよいよ鳴き砂の実験。砂よりさきに胸が高鳴る。まず屈さんが頂上にあがって、辷りおりるのを録音することになった。沙坡斗で見たとおなじポーズで屈さんがすべりはじめた。はじめのうちは、砂が先行して辷るだけだ。やがてブブブと音がした。いよいよ 始まりと、固唾を飲んでいたとき、異様な雑音が遠くからした。飛行機らしい。録音は失敗だったと思った。ところが実はそのおとこそ、鳴き砂の音だということは、屈さんから聞いた。ブーンブーンと飛行機のような音なのだ。そうか、じゃ3人一緒にやろうということになった。ガイドの張さんが録音係。私はかなり疲れていたが、ここまで来て体験しない手はない。最後の登りを頑張って頂上に上がった。
スタート、いっせいにおりはじめる。足の前方に動く砂の量が辷りおりるにつれて、多くなってくる。そのときである。ブーンと音がして砂が尻の下方で上下に振動しはじまた。これだ。これだ。録音の妨害にならないよう、声を出したいのをがまんしながら、砂丘の下まで辷りおりてはじめて、やったやったと皆で思わず叫んだ。ただスゴイというのみだった。
空には薄い巻雲がまるで仏の絵図のように浮かんで、私が仏陀の世界に入ったような錯覚にさそわれた。ここでジットそのまま足跡ひとつない美しい砂丘に留まりたい気持ちだった。
その晩、ホテルに帰ってこんな詩を書いた。
Long years up to the present
敦煌 was an origin of my learning
鳴沙、碾磑、仏陀、all three combind 敦煌
仏陀 lead me here now
I reach the origin
my mind is jumping
Singing sand sing the song of the heavens
鳴沙山の砂の上を辷るとき
ブーンブーンという音は天からの声に聞こえた。
それはもしかしたら、モーゼの十戒を聞いたのかもと幻想したくなった。
仏陀もキリストも同じなのだと。
NHKなどが鳴沙山が鳴くのは、風が峰を切る音だなどといったのは、とんでもない話である。
写真は鳴沙山頂上で成功万歳を叫ぶ調査隊
左から王、筆者、屈、岩瀬
14:00 食事(事務所で) 莫高窟見学 謝生保さん案内
17:30屈さんが実験したブーミングサンドのビデオをみせてもらった。
残念ながら、中国のVHSはシステムが違うためそのままでは日本で見えないとのこと。
20:00〜22:00市街地の露天でうどん、さつまいもをたべる。ホテルよりここの方が楽しい。
20日(日):7:00起床
9:00敦煌空港
9:50離陸し西安へ
12:45西安空港着 中国科学院西安分院外事処長 李喜堂氏迎え
14:00西安鐘楼飯店(超豪華ホテルで部屋がいくつもあった)
18:00中央テレビ5で鳴沙山を大勢で辷るシーンがあった。鳴き音はなかった。
18:30ぎょうざ宴会(30種類)
20:00就眠
21日(月)
7:00起床
8:30朝食
9:00車で出発時間があるので市内見学(道中スモッグ著し)兵馬よう博物館見学
10:30秦始皇帝陵 (ツーソtoilet有料2角)
12:30揚貴妃の風呂御殿
13:30昼食後、城門上へ上がる。
15:00城門を出て空港へ
16:00西安空港着
17:40西安空港離陸(雲多く下界見えず)
19:30抗州で休憩30分(待合室)
20:10離陸 -杭州経由-厦門へ
21:21厦門空港着陸(暖かい24℃の海の匂いにほっとする。
やと沙漠から開放感。ここでトラブル:出迎えなく通訳がタクシーなど手配中、日本人2人だけで荷物を監視中、シツッコクタクシーにのれと勧誘にくる。Noというが通じない。黙っているとやがて数人のウサンクサイ人相のわるいのに取り囲まれた。
わけのわからぬことをいう。返答もできない。やっと王さんがきて決着。通訳不在でいるのは危険。
21:00タクシーで厦門大学へ
昨日は日曜だったため、再確認できなかった。、大学賓館はだめ。先生の女性助手の案内で別のところに宿泊することになる。
22:40鷺台大飯店着(ナイスルーム)
22日(火)
8:00朝食(窓から海が見える)
蔡愛智(Cai Aizhi)厦門大学教授(海洋学)と
昨日の助手が案内にきてくれた。
9:00車で出発、すぐそこと120kmの行程
12:00深滬湾到着
ここは人民日報1991.4.9.に海底古森林の謎として紹介されていた場所である。
福建省晉江県瀕臨東海的深滬湾
顆粒細小、晶瑩潔白 優質珪砂(石英沙)として紹介されたところ。
鳴き砂とは書いてなかったが、石英砂に注目して鳴き砂か調査した。
ここは松に似た木が海岸に生え、林のなかに純白砂が堆積し、それを工業用に採取していた。トロンメルなどがあった。
海岸線の形も、打ち寄せる波も琴ケ浜に酷似していることもたのしかった。
砂は湿っていて、カラス容器では鳴かなかった。持って帰ることにした。砂は純白である。
15:00湾退去
15:10民家で昼食。こども達を混えてと写真をとった。
15:40帰途、交通トラブル(通行料が必要だった)。厦門大学近くの中国華僑寄贈の大学施設見学
18:20ホテルに戻る。
19:00〜20:00 夕食
教授と助手をまじえて懇談。とても気さくな先生で違和感はまったくない。
先生は中国海岸の鳴き砂については以前から、調べていた。研究者が中国には仲間がいないので、一人でやってきた。日本に仲間ができてうれしい。資料の交流をしようと極めて積極的だ。中国海岸には鳴き砂が沢山ある。海南島にも北部にある。
しかし鳴沙山の砂は体験したことがない。屈さんとも連絡はないとのこと。ここでも専門分野の差があった。高温石英はなぜ調べるのか、学問的に意味がないのにといわれるので、それには文化的意味があるからだというと納得。幸運石英と考えることも了解。
蛙砂は北京と敦煌においてきらので、あとから送ることをやくそくした。内外の鳴き砂文献も送ることを約束した。謝謝。
中国ではとにかく役に立つことがないと、金がでない。日本でそういう研究があることはすばらしい。基礎研究はいずれは役に立つことがあると。約に立たない研究が大切だ。
23(水)7:00起床。9:00島へ舟で渡る 参考用に貝の玩具購入
15:30厦門大学(教授は会議のため、外国交流センターロビーで夕方まで待つ。
16:30教授が空港まで送っていただいた。
20:00厦門空港離陸
航空機の座席が最後尾で、冷蔵庫脇のコーナーであり、前の席がないから、岩瀬さんと大声で冗談を語りあい、時間のたつのを忘れたたのしい旅だった。
21:40上海空港着。ホテルは明日の都合で空港近くにとった。タクシーをのるのにまたトラブルがあったようだ。
22:30西郊賓館(外国国賓が宿泊する高級ホテルで最近ではゴルバチョフがとまった。)
24日(木) Xi jiao
7:00起床(外音なく静寂)チンチン チョンチョン ファファと
9:00発
11:40上海空港離陸(雲の上)
日本上空から雲の上に富士山がくっきりと見えた。
14:35成田空港着 これで調査団行動終了
(この旅に同行した岩瀬さんは1996年急逝された。おしいことだ。彼ははじめて鳴沙を体験したもう一人の日本人だった。)