私はなぜ石臼にとりついたのか? (6最終回)
エコロジーとの出会い
雲上の人から突然電話が来たら、誰でもおどろく。前東工大学長の大山義年先生から電話だった。「君俺に付きあってくれんか」「何ですか」「わしは昔台湾大学にいたが、粉体工学会の悪い連中がその遺跡を見に行こうというと言うんだ。君、わしの護衛に同行して欲しいんだ」。先生は日本の化学工学四人男の一人で、とりわけ粉体工学の草分けである。一九七一年五月二-八日台湾粉体工業懇談調査団のコーディネーターとして大山義年先生を団長にかついで参加することになった。
フライトでも先生の脇の座席だ。私が粉体工学会誌をもっていたら、「最近は学会誌はご無沙汰だが、見せろ」と言われるので、見せると「何だ相も変わらずだな」と一語。先生の荒っぽい話方には馴れていた。宿の部屋も同室。そのときいつも離さず目を通している一冊の分厚い本があった。先生がトイレに立ったときにそっと覗くと「Environment(環境)」とあった。さすが大先生だと思った。
台湾大学を訪問すると先生の助手だったという人が出て来て、涙の再会。そして研究室を案内した。戦前先生の居室があった所だった。実験用ボールミルなどがあって、手洗い場にある鏡までそのままなのに、先生はなつかしさも越えて「これ。もう捨てろや」と昔の調子が出て全員で大笑い。
環境問題へのきっかけ
台湾への調査団は何も目ぼしい情報は得られなかったが、私にとってはEnvironment(環境)への関心を教えられた。この頃先生は大学を定年退職し、当時通産省内にあった公害研究所所長だった。「粉体という語を始めて言いだしたのは寺田寅彦先生だよ、わしのところに先生からもらった、はがきがあるよ」と聞いた。それを見せてもらうため所長室を訪ねたことがあった。先生は理化学研究所で寺田先生の部下だった。となると大山先生はお爺さん、私は寺田先生の曾孫に当たるわけだ。手書きのハガキに「物質には気体・液体・固体の三態があるというが、もう一つ粉體という別な態がある。粉體(体)學という学問が必要だ」とあった。
帰国後すぐTurk Turk and Wittes 著”Ecology Pollution Environment”(一九七一)を購入し、その勉強会を大学の教授を中心にした勉強会を発足させた。現在では環境ばやりで、入門書は手のつけようがないし、エコロジーは子供でも知っているが、一九七○年代初頭では新語だった。粉体工学会でも一年間私が中心になってTurkらの著書の勉強会を実施した。
これも偶然だが一九七二年には環境に関する新課題が浮上した。鳴き砂である。網野町出身の脇田 卓君という学生が、琴引浜の砂は鳴きますよという。それが後に自然環境保護の象徴になろうとは当時考えもしなかった。後になって彼の消息を聞こうとして網野町に問いあわせたら「そんな姓はこの町にはない」と。強いていえば「それは石臼大明神と親戚の琴引浜の守護神、白滝大明神のお導きかも」と。 私はその後三○年近く、それが石臼と共通の原理に基づくものであるという認識はなかった(本誌二○○二年十一月号参照)。
土のエコロジー
私が大学へ来たとき、会社から来るので荒っぽい機械を使うかもとの配慮から、私の研究室の分室が学内の通路に面した場所にあり、そこは全学の従って文科、理科を問わず学生と教授が行き来する場所だった。しかもまさに庭つきであった。このような文理の自然の交流の場は願っても得られるものではない。しかもそこには明治期に薩摩屋敷があり、桑畑だったので残った一本の桑の木が、適当な日陰をつくるので、私が石臼の仕事をはじめて石工作業するには好適な環境であった。
雑草園(正確には野草園)
その頃同志社大学は烏丸今出川、京都御所の北に隣接していたが、そのキャンパスも年々舗装がすすんだ。樹木の根元に、わずかばかりの土が顔を出しているだけだった。秋に銀杏の葉や実が落ちても、その風情を観賞する間もなくセッセと掃除されてしまう。クルマが銀杏の実を踏みにじって醜くするからだ。ただ一箇所、草が生いしげり、落葉が堆積するにまかせている一角が、私しか使わない研究室の庭になった。そこには雑草が茂っていた。重要文化財の赤レンガの建物に隣接し、生物学教室の実験用動物(いもり)の池があったので、舗装をまぬかれていたのだ。ここには季節があり、春はタンポポ、夏は、十薬(どくだみ)、うらじろ、蓬、水引き草、秋には、すすきの穂がゆれ、彼岸花が顔を出し、漆の葉の紅葉が美しかった。昔はどこにもあった植物である。その頃は大学に隣接している冷泉家の庭も、(最近は整備されたようだが)ここと同じ状態になっていた。
ここはひと昔まえの京都のありふれた景色だった。ここには、私の友達のミミズや蟻やダンゴムシ、さらにたくさんの昆虫が住み、縁の下には蟻地獄が住んでいた。ときには蛇もきた。あるとき私を訪ねて来たお客さんが真っ青な顔で飛び込んで来た。「アー驚いた。キャンパスに青大将がいた」と。野良猫がなぜか気にいって、住みつくこともあった。落葉は、しばらく虫たちの隠れ家になってから腐敗して、土にかえる。二メートルくらい下が室町時代、その上にも下にも京都の歴史が埋っていた。室町時代の地層から火事で焼けた茶わんに混じって茶臼の破片も出た。多分薩摩屋敷のものであろうが、正規の発掘ではないから、考古学資料にならず、私が保管することになった。これが縁で考古学者の森浩一教授との出会いがあった。ここから茶臼の歴史を調べる道が開けた。石臼の石の鑑定の地学の横山卓雄教授、碾磑論の存在を教えてくれた古代法の法学部教授、中世ドイツの石工職人の話を教えてくれたドイツ語の教授、中世イギリスのミルの話の英文学教授、そして旧約聖書にある鳴き砂の話を教えてくれた神学部教授など(これは後に早稲田大学の吉村作治教授につながった)。数々の知識はこうして私に伝えられた。いずれも石工修業の場所であった。
大学で常に草ぼうぼうな唯一の場所だったから「舗装はしないとして、せめて芝生にしたら」という大学当局の忠告もあった。なぜ雑草がいけなくて芝生がいいのか、私には理解できなかった。大学当局から部長を通じて強制力がかかりかけたときは、「舗装するなら私の顔に舗装してからにして」と言い放ち、工学部が郊外(京田辺市)の田辺校地に移転するまで安泰だった。移転した翌年元の巣を訪ねて見たら、待ってましたとばかり、私が大切にしていた大地は見事にアスファルトで覆われ、学生が語らうベンチが並んでいた。
土は粉だの再認識
一九八五 年NHK教育テレビ「粉の文化史」の取材のためにもっとも自然の状態の土がいることになった。私は雑草園なら昔ながらの状態を残しているだろうとここの土を採取した。採取した土をふるい分けて、粗い砂を除いた細かい土は、乾燥させてほぐすと、フワフアの粉になった。こうして見て、私は、はじめて土は粉なんだと再認識したものだ。沈降管に入れても、いつまでも上澄ができなかた。その粉は、いまどきハイテクで花形の超微粒子に匹敵しそうな細かい粒子も含んでいた。母なる大地の土は、まさに粉そのものなのだ。、粉なる大地であり、粉ゆえに生命が宿っていたのだ。しかもその構造は複雑怪奇。一九六九年七月、アポロ宇宙船で月に人類初の第一歩を踏み出したとき発した第一声「あ、粉だ」とつぶやいたのを想起した。
「なぜ粉と石臼と砂に夢中になったか」について、きっかけはいつも突然の不思議な出会いであり、それぞれのきっかけはすべて偶然で私自身が意識的に求めたものではなかった。それは大明神というより他に考えようがないと思ってる。