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私はなぜ石臼にとりついたのか? その五
京友禅の石臼との出会い
『粉粒体プロセス技術集成』(産業技術センター、一九七三)を編集している最中に、京都で元禄時代から続いていた一つの日本の伝統的な粉粒体プロセスが、その長い栄光の歴史を閉じ、最新式の粉砕機を中心とするプロセスに席を譲る事件が起こった。それは京友禅染めに使う糯米の糊を製造してきた松伊製糊であった。一九六○年ごろまでに、伝統はほとんど姿を消していった。それでも石臼による製品は石臼挽き独特の
粘着力を買われて珍重されてきたという。最新式機械は不二パウダルの高速衝撃式機械であった。その機械を納入した川上登氏から情報をいただいた。
石臼は万成石といわれる岡山産の花崗岩で、直径六三○ミリ、上臼厚み四○○ミリ、上臼重量約八○○キロであった。樫の木製の歯車で毎分三三-三七回転。四組の石臼で一二○メッシュ下を一日一トン生産していた。問題は目立てが毎週一回必要でその職人が停年で不在になることであった。私は停止寸前に工場を訪問し、その後歯車を始め石臼など主要部分を大学へ寄贈していただいてそっくり保存することにした。その移転後の組立は、いままで松伊製糊で機械組立に携わって来た鉄工所に依頼した。石臼設置には歯車の僅かな浮きを補正する必要もあった。またその職人谷 和助さん)を大学に呼んで目立てを実演してもらった。
石工修業開始
私ははじめぼんやり見つめていたが、ぼんやり見ているのも気になるので、ちょこちょこできそうな仕事を手伝っているうちに「あんたもできるじゃないか」と谷さんはいう。「これは子供にしか教えないものだが、わしの息子は後を継ぐ気がない、あんたにおしえるよ」。私もその気になった。大学のキャンパスでの石工修業である。
学問の交流の場だったキャンパス
珍しいから立ち止まって見つめる、人垣ができた。あるとき「こんなこと誰がやらせるんですか」と聞く教授があった。「私自身です」「エッ貴方教授ですか」「ハイ」「あー驚いた。じつはねー」と。その教授は法学部の古代法の専門家で、律令などの文献に碾磑という意味不明の語があるが、それは石臼のことらしいといわれている。「文献を持ってくるから見てくれませんか」。
同志社大学は烏丸今出川、京都御所の北に隣接していたが、そのキャンパスも年々舗装がすすんだ。樹木の根元に、わずかばかりの土が顔を出しているだけだ。秋に銀杏の葉や実が落ちても、その風情を観賞する間もなくセッセと掃除されてしまう。クルマが踏みにじって醜くするからだ。ただ一箇所、草が生いしげり、落葉が堆積するにまかせている一角があった。
重要文化財の赤レンガの建物に隣接し、生物学教室の実験用動物(いもり)の池があって舗装をまぬかれていた。ここには季節があり、春はタンポポ、夏は、十薬(どくだみ)、うらじろ、よもぎ、水引き草、秋には、すすきの穂がゆれ、彼岸花が顔を出し、漆の葉の紅葉が美しかった。昔はどこにもあった植物である。最近は整備されたとはいえ大学に隣接している冷泉家の庭も、ここと同じ状態になっていた。
ここはひと昔まえの京都のありふれた景色だった。ここには、私の友達のミミズや蟻やダンゴムシ、さらにたくさんの昆虫が住み、縁の下には蟻地獄が住んでいた。ときには蛇もきた。あるとき私を訪ねて来たお客さんが真っ青な顔で飛び込んで来た。「アー驚いた。キャンパスに青大将がいた」と。野良猫がなぜか気にいって、住みつくこともあった。落葉は、しばらく虫たちの隠れ家になってから腐敗して、土にかえる。ここの土は鴨川の氾濫で堆積したから砂が多い。二メートルくらい下が室町時代、その上にも下にも京都の歴史が埋っていた。室町時代の地層から火事で焼けた茶わんに混じって茶臼の破片も出た。私は石臼の遺跡の上で石臼作りを始めたのであった。
大学へ来たとき、会社から来るので荒っぽい機械もあろうかとの配慮から、私の研究室の分室が大学の通路に面した場所にあり、そこは全学の学生と教授が行き来する場所だった。その分室は本来同志社中学の一部であったが、中学からの通路はなかったため、大学で使用することになったらしいが、経緯は不明であった。そのため大学の文書からは漏れていたようだ。それがはっきりしたのは、七○年代の激しい大学騒動の時であった。赤ヘルで知られていた全共闘が大学を封鎖した時にも封鎖しなかった。全学が封鎖されても、そこには出入り自由であった。
私の研究室の学生達はここを自由に利用していた。この部屋にはもちつきに使う道具類の倉庫にも使っていた。杵は千本杵といって、長さ一間ものの木材の角を鉋で削って作った。実はそれは研究室の学生達が、キャンパスで集会している全共闘がら略奪して集めたものだった。「あいつらの角取った」と得意になっていた。
闘争の終期に機動隊が大学へ入ったとき、私の分室は武器庫と見なされて、杵は没収されてしまった。しかしすぐに学生達は残党の全共闘の集会から略奪して補った。
しばし荒れ狂った全共闘の闘いも終焉し、静かな学園が戻った。
この装置一式は現在網野町にある。いずれ稼動させる積もりだ。
知らずにいたが桑の木は下で座禅すれば悟りを拓くものだという人もいた。
これがはじめで、神学部教授からは旧約聖書にある石臼や鳴き砂のことを教わり、神学部の図書室にこもってしらべる自由を与えられたり、ドイツ語の教授からはシューベルトの歌曲集「美しい水車小屋の娘」は粉屋の職人の修業の厳しさを伝えていると、LP盤のレコードとともにいただいた。なかでも重要だったのは、考古学の森浩一教授との出会いだった。日本の石臼は「室町時代まで遡るかどうか」というあたりから、遺物を追って行く道を拓くものであった。そのご先生の紹介で全国の考古学への道が開けた。総合大学ならではだが、たまたま交流の機会を作れたのは幸運であった。
しかも向かいには広い空き地があって雑草が茂っていた。まさに庭つきの研究室であった。明治期には薩摩屋敷があり、桑畑だったので残った一本の桑の木が、適当な日陰を作るので石工作業に好適な環境であった。