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私はなぜ石臼にとりついたのか?(その4)
          
 石臼大明神の出現
う  その頃ふとした機会にもらした嘆息が名古屋大学の論文審査をした井伊谷鋼一教授に気付かれた。ある時先生を訪ねると、「君大学に来ないか」と言われたのが第一声だった。この時は考えて置きますとだけ答えた。その一年後の年末三十一日だった。先生の部屋に入ると、同志社大学の奥田聰教授が来ていて、「貴方に来てもらう準備が出来ています。これがカリキュラム案です。」と書類を示された。井伊谷教授の策謀だった。「正月にゆっくり考えなさい」

帰りの夜行列車の中でねむられぬ夜だった。

 翌朝お昼ころだったか、社宅でお隣さんだった森製造部長のところへ、年賀の挨拶に行った。個人的つき合いはしない連中ばかりだったから、この社宅はきちがい部落の異名があった。そこへ挨拶にでかけるのはただ事ではない。「今日は内緒の話で来ました。森部長はきっと怒るでしょうから」と切りだした。昨日あった京都大学の出来事をそっくり話すと、「なるほどなー。えらい話をきいたなー。それは怒るだろうな」。その辺で「では失礼します」

 新年の会社は5日に始まった。出勤するとまもなく部長から電話があり、「部長に 聞こえちゃったよ。」 (この交渉を呼吸と呼ぶそうだ)。

 こうして1966年4月に同志社大学へ移ることになった。渡米して技術導入に関わっているメイン担当者が、外に出るとなると、会社は大問題だ。第一技術導入の秘密文書は私の管理だった。私は本社へ呼びだされた。ところが意外にも、「なるほどなーさもあらん」という鷹揚な対応だった。条件は「守秘義務として五年間はよろしく頼むよ。五年後はこちらも進歩しているはずだからな」。これは塩尻工場長を経て本社の取締役になっていたK重役だった。さすが昭和電工だと思った。
 「しめしめ」と思った私はもう一つ要求することにした。「大学に行ってもすぐ仕事がしたい。私が使っていた機械類を私の嫁入り道具として下さい。」「あきれたもんだ。でもそれで最後だぞ」と言ったのは当時製造部長だった。その後大型トラックも会社もちで出してもらって、私の大学での第一歩がはじまることになった。
 しかし会社では部下に命じて研究や実験をやっていたが、大学では誰もいない。すべてスタートは私が手を下してやらねばならない。これは大変だ。写真とくに顕微鏡写真、種々の粒度測定などは自分で測定したことがなかった。そこで測定手順書を作製する必要があった。残りの約三月をかけて手順書を作ることにした。作業標準書が会社にもあったが、そのままでは使えないことも分かった。それは後に『粉体工学実験マニュアル』(日刊工業新聞社、一九八四)の基本になった。
石臼大明神とは
 大学に移る前年のこと。工場の現場の休憩室での仲間と雑談のなかで、荻原さんと呼んでいた臨時工が「あんたは粉砕の専門家だといばっとるが、蕎麦は挽けねーじ(信州弁)」といった。「そんなバカな」といい放ったが、大学へ行くと聞いて、彼は上下揃った目立したばかりの石臼をもってきた。「あんた大学へいったらどうせヒマずら。これ研究せえ」。それからの人生の行方を変えた彼は私の大恩人だが当時を知る誰に聞いても不明。塩尻市洗馬の人と聞いたいたがそんな人はいないという。それは京都先斗町の石臼大明神の化身かとも。
著書 
 会社にいたころ会社に内緒ででき上がった著書『粉体のフルイ分け』( 日刊工業新聞社 、一九六五)を恐る恐る上司に見せると、上司は「やるもんだな」と一言。別に小言は言わなかった。『 粉粒体工学』( 朝倉書店, 一九七二)は秘密で準備していた。もっと嬉しかったのは文献の入手である。『 粉粒体工学』の著作には膨大な文献のコピーが必要だったが、「君が要求する文献数は全社の他の要求全部よりもはるかに多いぞ。」といわれたが、それだけで、要求はカットはされなかった。 粉体工学をやるには、あらゆる種類の粉体に接したい。粉体機械メーカーの中にも足をおきたい。若い学生諸君を粉だらけにしてやりたい、そんな希望をすべてかなえてくれる職は先生だった。
 教授職とは別に(これも会社には秘密だったが)篩分け機械メーカー(徳寿工作所)の取締役や理化学器械メーカー筒井理化学器械顧問を兼任していたので、それをベースに著書『粉体工学入門の入門』(粉体と工業社、一九七一 )、『ふるい分け読本』(産業技術センター刋、一九七四)を出した。粉体概念は膨張しハイキャップスクリーン(確率ふるい)などの機械の開発と販売も経験して理論を形あるものにし、キャンパスに群がる学生集団をみて、「あれも粉体の流動現象ですね」とまでいう学生をつくることにも成功した。 

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