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私はなぜ石臼にとりついたのか?(3)

 現場技術者に徹する
 入社後一年半位たった頃であろうか。同じ工場の研削課で製品粒度のクレームが頻発した。昭和二八年だったから折からの不況のせいで、お客様がうるさくなったのである。あいつはふるい分けで粒度をやっているというので引張り出されることになった。当時係長だった森圭三氏とともに研削材課に移り、もっばら粒度、したがって篩の研究にとりこむことになった。「人を馬鹿にした話だ。篩などという古くさくて単純きわまるものをやれとは」と、われわれは大いに憤慨しながらも、解決せねばそこからぬけ出せないのでがんばった。当時の化学工学のテキストには、篩についてはやっと半ページしか書いてなかった。森氏は統計好きだったから、篩の網目の統計を粒子径分布の関連から研究すると主張された。当時の会社は品質管理に統計的手法を導入するわが国で最先端の企業であった。私も大学の卒論に統計的手法を利用していた。だが卒論を書きながらなにか空しいものを感じていた。指導教授が、「三輪は統計学を勉強しているが少々杓子定規なところがある」とつぶやいた。卒業論文の発表会の講評の言であった。さすが教授だ。これ限り私は杓子定規の統計を捨てて現実派になり、現場に沈潜して、作業員と起居をともにするような形で、篩の網張り作業や網の目詰り除去作業を習うことからはじめた。
 まず仕事を習う労働に従事し、そのあとで考えるという研究のパターンはこうして身についた。この頃、私がひそかに愛読していた毛沢東の「実践論」、「矛盾論」が実はそのような徒弟制度的研究方法論のパックボーンであったことは、会社では秘め事だった。
 その頃松本市内にあった若者の自由な集会に参加して、一年間日本史の講師やロシア語の講習会を開いたりしていた。日本史は信州大学の日本史の教授の都合で突然人がいなくなり、「あんた大学出だから」と無理にやって」と無理に押し付けられた。これは大勉強が必要だったが、後に石臼の歴史を論ずるのにつながった。 
研究のゆきづまり
 篩分けに関する研究は国内に研究者がなかったので、始めて学会発表を京都会館(化学工学会主催:第一回粉体討論会)でやったら、一挙にその専門家と見られて、すぐ雑誌社から原稿依頼が来た。その頃から学会誌にも論文を出しはじめた。会社に篩分けの専門家がいるというだけで、粒度のクレームは来なくなった。その頃本社の某重役から私に篩で学位論文を書けという特命が来た。私は学位論文はどんなものかもわかっていなかったから、その模索からはじまった。特命があったので、名古屋大学などへの出張は自由になり、殆ど毎月名古屋大学や学会にでかけることができた。ほぼ五年かけて論文を完成して昭和三五年に『篩分けに関する研究』(学位論文)がパスした。このお蔭で会社が発注する機械メーカー(篩分け機械)にも顔が利くようになっていた。
 会社では机を並べている大学出の同僚の仕事には遠慮があるが、彼が他の部署へ移動すれば、その部下とともにその仕事を横取りできた。工程は粉砕機から始まって種々の分離装置や運搬機械があったが、つぎつぎに私の配下に入り、遂に全工程を支配下に置いた。まるで天下取りである。なかでも大きかったのは粉砕工程だった。困ったことに粉砕は機種自体がノウハウだったから、外部に発表することは許されなかった。当時最先端技術だった振動ミルを神戸で見学して発注したら、先方が技術導入したばかりで、英文のままの図面がくる程の先方の慌て様だった。この頃、東大に森芳郎先生のところで博士論文を書いていた神保元二先生を訪ねて彼の自宅を訪問したことがあった。神保先生を知ったのは星野芳郎先生からわれわれの研究会に「粉体を研究している人がいるよ。」と紹介されたためだった。神保さんはその頃は大学院生でジェットミルを基本に研究を進めていた。その後神保教授とは粉体工学会の幹事会で会う機会が多かったが、星野先生の話題はいつもなぜかお互いに避けていた。
 一九六四年末には技術導入の打ち合わせで渡米を命じられた。ナイヤガラ州にあるカーボランダム社である。四週間だった。そのころ技術的な日米逆転がはじまった頃で、私に課せられた命令は「何も教わることはないぞ」といばって来いだった。滞在三週間目には向こうから粉砕の講義を頼まれた。日米逆転そのものであった。そして最新技術であるジェットミルのトップ技術者にも会えたが、その機械は超微粉砕用で、研磨材には使えないことが明らかになった。滞在中、その頃米国におられた井伊谷鋼一教授から、誘いがかかった。「そのまま会社をやめて、こちらに来い。こちらに君のポストを確保して、テーマも決めた」と。受け入れ先の教授からも連絡があった。彼は私が文献で知っている有名な教授だった。少々迷ったが、会社の命令を無視して動くだけの勇気はなかった。
 
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