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私はなぜ石臼にとりついたのか?(1)(目下執筆中)

原始農業体験は偉大な大学だった
 石臼との出会いには、 今なら笑って話せる長い長いウラ話がある。6回に分けて説明しましょう。

農業は粉体プロセス

 1945年(昭和20)五年制だった工業学校で授業らしい授業は一年だけで二年からは、授業はほとんどなく勤労動員に刈りだされて工場で働き、その上卒業を一年繰り上げよとの国の命令が出た。数学は代数幾何だけで微分積分は殆ど習わずじまいだった。岐阜工業専門学校へは、受験抜きで推薦入学。入学しても授業はなく、別の工場へ配置された。従ってもっとも学力不足の唯一の世代であった。ところが8月15日敗戦。私は当時19才。ようやく焼け残った校舎で授業がはじまったが、先生も食べ物探しで落ち着かない。数学の教授が二項定理の誘導を間違えて講義を中止することもあった。なんと下宿不足で前夜は教授と同室だったが、先生も本をひらいた気配はなかった。こんなことではだめだと、一年休学を決めて田舎へ帰った。その頃親爺も彫刻師をあきらめて本格的農業を決め込んでいた。「お前手伝え」。 
 農業の経験がない私だったが、そこで丸一年奥養老の山中の田舎で農業を体験することになった。当時の農業は牛をシーッシーッと追って作業する明治時代のままの農法だった。牛小屋も手作りだからここで大工仕事を学んだ。壁塗りは赤土に藁を刻んで固める。見事な粉体プロセスだ。

春は大きな鍬を振り上げての田起しからはじまり、代掻き、田植え、田の草とり、牛の餌用の草刈り、秋の取り入れ、稲架(はさ)掛け、脱穀、籾干し、籾摺り、精白までの全工程を体験した。今にして思えば総てが粉体プロセスそのものであった。土は粉なのだから、そもそも農業そのものが粉体プロセスであるのはあたりまえだが、そう私が確かに認識したのは、ずっとあとのことで、何とNHKの教育テレビで12回シリーズの「粉の文化史」の取材中の会話の中で自然に出てきたものであった。それもアポロ宇宙船が月に着陸しての第一歩で発した「あ、粉だ」と言ったとき、そういえば「地球の表面も濡れた粉だ」と再認識したものだ。

苦行の日々

 水田で行われている生態系の微妙な機能を実感し土壌学と微生物学を学ぶ必要も考えた。籾干しは濡れた莚では非効率だという当然なことも後に工場での新しい発想の原点になった。(粉製品の天日乾燥にステンレスの皿を並べていたが、それでは非効率だ)。稲刈りが済めば農事は終りと思っていたが、冬になっても田圃の水もれ対策があり、山の草を刈って堆肥をつくる作業や、牛の糞の処理運搬は寒風の中であったし、山で薪を集める仕事もあった。牛舎の改造では、柱にする木を里山から切りだす仕事からはじまった。そして桧の皮を剥ぎ、それは屋根葺きの材料にする。次ぎに皮を剥いだ材木は、山から傾斜を利用して、辷らせて落とす。これはかなり危険を伴う仕事であった。木は担いで大八車に乗せて家まで運搬する。途中に炭焼き窯があったので、それを修理して木炭を焼いた。、
 精白作業もカラウス(足踏み式のバッタリ)を作るところからはじまった。精白は水車で動く米搗き屋に出すのが普通だったが、外に出すと米の生産量がバレて過大な供出を要求されるからである。二宮金次郎の真似で読書ができるはずだったが、頭が上下するので、絶対不可能だというのもわかった。昔の小学修身のテキストの絵はウソッパチだった。もちつきの木臼も自作した。荒削りは若いものの私、最後の仕上げは親爺だった。これは何個か売れたので、多少は収入源になった。刻みたばこ入れのドウランという気密な木製の入れ物も作った。これも売れた。最後に表面に彫刻するだけが親父の出番だった。この製作には私の発案で鑿だけでなく鑢を利用して工程の短縮に成功した。

 また河川改修や灌漑用水路工事もあった。雪が降れば草履作りで、草履作りの手順書も作製した。僅かな残り時間で本を読むのはもっとも楽しい時間だった。そのころの読書はほとんど哲学入門書だった。農作業全体は複雑怪奇だが、稲刈から精白までの工程は工程図が作れた(三輪著『ものと人間の文化史-臼』三章)。これはある博物館でそのまま利用されていた。

民俗学への道
 この原始農業体験は後に民俗学に参加するのにおおいに役立った。下手な大学生活の何年分もの価値があったと思う。しかし今でこそそう思うのだが、当時はただただ苦行だった。一番苦しかったのは、梅雨時の藁の蓑を着ての雨天作業や土用の陽射しの下での田の草とりだった。腰が痛くてたまらない。こんな仕事をするのならどんなに苦しい仕事でもやれると思った。それを紛らすために、親爺に学校の招集だと嘘をついて中休みを取った。学校の近くに下宿したが、下宿代は請求しない禅寺だった。次ぎにこれも神道系の教会だった。その切れ目のとき町中空き部屋を探して歩いたときのやるせなさは筆舌に尽くせぬものであった。夕食代がなくなり、友人に金を借りたときの屈辱は忘れがたい。これらの宗教家の助力がなかったら、私の現在はない。現在でも神道の教会の息子の家庭教師をしていたよしみで交流がある。彼はいま同教会の要職についている。
 食糧難時代だったが、米や燃料の木炭は田舎から自転車で約40キロの道を運んで自炊した。大垣から岐阜までは国道だが、一度も自動車に出合わないこともあった。いまでは考えられないことだ。奥養老の山あいに郷里があったから、冬は雪道20〜25キロを重い書籍と米やいもを担いでひたすら歩いた。家に着くのは真夜中になる。あるとき顔も見えない真っ暗な夜道でおなじく歩いて帰る女の子に出あった。約10キロの山道を話しながらあるいた。名も聞かずに分かれたが現在であれば考えられない話だ。強盗など出るはずがない安全な時代だった。

工業専門学校時代
 一年後、学校へ出ると、やっと三角法の基礎だけで、微分積分の基礎も習っていない私がいきなり微分方程式が出る講義を聞かねばならない破目に陥った。同級生には陸軍師範学校や海軍兵学校を終えた五年以上も年上の秀才そろいの連中が多い中である。それを補うのは独学以外になかった。英語も英語廃止の時代の中等教育だったから、基礎英語だけしか習っていない。それは英字新聞を読むことで補った。これが大学受験に大いに力になった。

 その頃私は大学受験は考えていなかったが、友人の一人が君は大学へ行くべきだと言った。後に述べる星野芳郎の本を教えてくれた男である。私は受験は全く視野になかった三年生の夏休み前のことだった。そこで以前から受験希望だった友人を訪ねて参考書を教えてもらった。そのリストの本を買い集めて約半年猛勉した。


大学受験
 名古屋大学受験の英語の問題は時事英語だった。英字新聞でTaxation  problem (税金問題) の一語を知っていただけで、理解できたので英語は抜群の成績を得られた。私に受験参考書を教えた同輩は落ちて、私が合格という逆転現象が起きた。数学や物理も同様の現象だった。引き続き東京の大学を2-3志願していたが、受験結果に十分自信があったのと、第一、東京行きの旅費自身がままならぬ状態だった。他大学受験は止めて帰郷すると親爺が「どうしたんや」と聞いた。やっぱり心配しながら、知らんふりしていたのだ。そして合格通知が来たときは大喜びした。明治32年生まれの親父だったからこそ、自給自足の原始農業の生きる知恵の総てを教えて呉れたわけだ。

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