西日本新聞1998年12月26日(土) (土曜エッセイ) 石臼が問い直すもの

 今月12月12-13日の両日,大分県湯布院町で日韓石臼シンポジウム」が開催された。石臼に関するシンポジウムはわが国では初めて。しかも石臼文化を共有する日韓の研究者が石臼と食文化の歴史を発表し合えた意義は大きい。ところで,日常生活の場から姿を消しているのに,なぜ今石臼かと思われる方もあろう。  私は粉体工学,物質を粉にする機械の研究者である。鉱石,ファインセラミックス,電子コピーと,粒子が目に見える粉から百万分の1ミリ単位の超微粒子の粉まで,粉に関する機械を研究し,同時に機械のルーツを探るうちに行き着いたのが石臼なのだ。  人類が石臼を使用し始めたのは実に1万年前の石器時代にさかのぼり,殻が硬い穀物を粉にして食べるという,食糧革命を人類にもたらした。日本伝統の回転石臼は鎌倉時代に抹茶の製造,戦国時代には火薬製造にもちいられ,米やそばをひくようになった江戸時代から庶民に普及した。  わが国の石臼の歴史で大きななぞになっているのが,福岡県太宰府市の観世音寺にある「天平の碾磑」と呼ばれる石臼だ。直径1メートル強,上下それぞれ400キロという巨大な石臼である。石臼に関する最古の記述として ,「推古天皇の18年春3月、高麗王、僧二人を献じ、名を曇徴、はじめて碾磑を造る、けだし碾磑を造るは、このときにはじまるなり」と記され,観世音寺の碾磑は曇徴の作と伝えられている。  碾磑とは,古代中国で発達した小麦の水車式製粉工場のことで,貴族や寺院が経営して利益を上げた。しかし観世音寺の石臼は,臼面が寸分の狂いもない完全な平面で,溝も12ミリと深く,小麦をひくことはできない。明らかに,水を流し込みながらものをひく臼でである。  私は韓国,中国の石臼の調査を重ねるなかで,「天平の碾磑」は,水に浸してやわらかくした大豆に,水を注ぎながらひく湿式粉砕であれば,ぴったりだと思い至った。つまり豆腐製造用というわけだ。わが国の食文化史では,豆腐は天平時代以降に食べられるようになった食品とされているが,観世音寺がわが国の豆腐の発祥地と考えると,謎が解ける。  シンポジウムでは,1959年から翌年にかけて発掘された河南省 県の前漢末の墓に,石臼による豆腐製造の場を描いた石刻がある,と記載された資料が上海博物館にあることが発表された。豆腐製造の始期を示す重要な指摘だ。また,韓国の研究者からは,石臼は,肉食をタブーとし,しかも多くの僧侶の食事を準備しなくてはならない仏教寺院とともに発展し,豆腐や雑穀の粉食という韓国の食文化を形成してきたことが報告されたことも興味深い。  西洋文明は大豆を飼料とする,牧畜依存の肉食を基本に発達した。一方アジアの食文化は豆腐や豆乳をはじめとする味噌、醤油、納豆などタンパク源を大豆に求める工夫を続けてきた。穀物を家畜の飼料とすることで,成り立つ肉食は資源の浪費である。  いまなお,世界各地で飢餓に苦しむ人々が多い現状の解決には,大豆の植物タンパクの活用が極めて有効だと考える。なかでも豆腐は子供にも老人にも食べやすく,栄養価も高い。  欧米では19世紀にロール製粉機が石臼に代わる機械として完成したが,一般家庭ではいまも効率のよい小型石臼が使われている。最近,わが国にもこの石臼が輸入され,ソバ製粉や漢方薬づくりに使われはじめるという,おもしろい現象が起きている。このヨーロッパの石臼の目を少し改造すれば,豆腐臼になるはずだ。これが実現すれば,豆腐を介して東西文明の交流が起るかもしれない。欧米で豆腐が注目されているだけに,豆腐の「世界食品化が起こり,食糧問題解決の糸口のなるかもしれないと思うのである。  石臼やすりばちなど,伝統の味を支えてきた道具の復権は,「食」の意味の問い直しにもつながる。工業化して大量生産される食から,手間はかかっても,安全な伝統の味へ回帰すべきではないか。何よりも家庭で共に食べ物を加工する営みは,家族のきずなを深めるのに大いに役立つと思う。

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