考古学者への報告
森 浩一先生 いよいよ押し詰まってきましたが,ご多忙のことと存じます。 ところでまえにお知らせしました日韓石臼シンポジウムが万事無事に,そして成功裡に終わりましたのでご報告申し上げます。 参加者は皆どこかで私と会った方か,石臼の謎の本などで知っている人たちばかりで定員50名を越えました。韓国からは6名の教授達が参加し,充実したシンポジウムでした。なかでもビッグニュースは,10月30日-11月4日の豆腐起源の淮南実地調査結果をふまえて,豆腐の歴史が明らかになり,従来の文書だけからの淮南起源否定説を否定し淮南起源が確かだといえるデータが出てきたことです。豆腐の起源はおそくても後漢まで遡りました。太宰府観世音寺の碾磑が豆腐だったという仮説も充分可能性が出てきました。 その根拠の第一は淮南の現地で,大きな穴があいている明器が寿春の報恩寺にある寿州博物館に展示されていることでした(図1)。これは豆腐など湿式粉砕の可能性大と考えられます。また中国から上海図書館で新しい発見を持って来ました。文物考古三十年という文献に1959年-1960年間の密県打虎亭の後漢代漢墓で発見された画像石(石刻図)に豆腐製造プロセスを書いたもの(豆腐作坊石刻)があったとある。これは後漢に豆腐製造があったことを証明するに充分です。しかし現在上海図書館では画像石の図が見つからないそうです。先生の研究室には文物考古三十年があるかも知れませんがいかがでしょうか。とにかく彼にレポートを書いてもらうことにしました。 観世音寺の石臼は韓国の先生たちが韓国の古寺院に豆腐をつくった石臼が多数見つかった例を報告しました。しかし形態は同じですが観世音寺や先に先生からいただいた北朝鮮(図2)ほど大きいものは見つかっていません。直径70cm止まりです。これらはすべて寺の催しの時仏教の精進料理につかう豆腐を多数の参加者に供するためといいます。中国の内陸部や韓国にくらべ,九州は海産の魚などなまぐさ物を食する地域で仏教の殺生の戒律を普及するにはどうしても代用食としての豆腐が必要だったと考えることができます。石の運搬は400キログラムもある重い石を運ぶ仕事などは古代人にはなんでもなかったから,寺の移設に使う筏を利用したのでしよう。 もう一つの発見は,観世音寺の碾磑の上下臼の目のパターンが異常なことですが,パターンを電動式で見せるダイナミックな展示物を新規に製作し,シンポジウムの期間を通して演台に展示し,古代の謎を実感していただくことでした。その結果,今のまま異常な組み合わせでも上臼を反時計方向に回せば,すこし異常でも交叉点が外へ向かうことがわかりました。逆に回せばこれは絶対に排出しそうもないことが確認できました。これは手打ちそばで知られる早稲田大学の高瀬礼文先生とのディスカッション過程で出た結論でした。 前に観世音寺関連の地誌による朱製造用を支持しましたが,朱なら深さ12mmという深さでは,水に流されて粗い粒が流出してしまいます。豆乳なら大丈夫です。現在宇治の黄檗山万福寺に残る隠元禅師ゆかりの豆腐臼の目は5mmですが,これは臼の直径が40cm程度であるためやや浅いと考えられます。 とりあえず情報です。 1998.12.17. .臼類資料室 三輪茂雄 追伸:なお詳細は
日韓シンポに出しております。