信州から来た石屋

 この地方では米ほとんどとれず、主食は大麦で、これを挽き割臼でひいて食べた。これを麦飯(ばくはん)といった。じゃがいもやソバは少なく、上食で、米などにいたっては、それこそ竹筒に入れて音を立ててなぐさめたという話の通 りで、全くなかった。麦は大麦が主でやはりぜいたく品であった。小麦は粉挽き臼でひいて、「とっちゃなげ」にして食べた。ねって、ちぎって汁に入れるのでとってはなげるという意味。こう生活にとって臼はなくてはならぬ 生活の基本であったわけである。

、唄の中にある「挽割花」というのは、臼で挽いたときの、粉をふるいで抜いたあとの、荒い方のかすのことで、皮が入っていて黒い。これに小麦粉をまぜて、ねって団子にして食べた。焙烙(おうろく)でいり、味噌をつけて食べたという。

 五日市は昔から石屋の多いところであるが、いい伝えによると、江戸城築城のさい、信州は伊那から、石工十三人衆が来た。さて工事を終って、何か望みのものはないかと聞かれたとき、「日本中を回る石工の鑑札がほしい」といったという。その人達がこの地に移り住んで開拓した。長野県では現在は「伊那」と書くが昔は「伊奈」だったのだ。このことは伊那市の根津忠二さんという方が文書をもっておられるという。現在五日市にある清水、伊藤、中村、田野倉、宮野、鈴木、加藤などの姓は石屋であった。この地は明治六年と八年に、二度も大火があり、貴重な文書や古い時代の民具類の多くが焼けてしまった。

伊奈臼との初対面

 伊奈臼には川崎の民家園や博物館でお目にかかっているが、それはあくまでも標本にすぎない。生の伊茶奈臼にいよいよ初対面 のときがきた。辰一さん宅には上臼だけしか残っていないので、すぐ近くの田島誠一郎さん方へ案内していただいた。ここには八三歳と八四歳のおじいさん、おばあさんがおられる。辰一さんが聞かれたところ、どうも蔵の中にしまったような気がするというおじいさんの記憶をもとに、見つかったので、出しておいてくださった。挽き手取付け用の添え木を、竹のたがでしめつけてあるのが特徴。竹のたがは、さきに四章でのべた鈴鹿山系の臼のようにりっばなものではなく、しかも一本である。添え木をつけたので、たがには挽き木の力が集中してかからず、ずれないように保持できればよいので、特別 にりっばなたが(組みたが)を使わなくてもよかったのであろう。また添え木をつかうと、挽き木回転半径も大きく(六・六寸)でき、上臼を重くして、二人以上で挽くのにも便利である。

この種の形態は関東西南部で多くみかけられるが、その分布はどこまでかまだ確認していない。田島さん宅には二組あって、目の深い挽き割り用(麦などの)と、目のこまかい粉挽き用とがあった。これらの臼は、おばあさんがお嫁にきたとき既にあったというから、先代以前のもので、明治中期以前ということになる。目は六分画の整然としたもので、これは信州系と見な すことができる。ちょっと変ったところは、ふつう分画ごとに副溝がどちらかの主溝に平行なのだが、これらの臼はいずれも、短かい副溝の部分で、方向が変っていることである。この種のものでもっと著しいのを川崎の民家園で見たし、沖縄にもあるようだ(沖縄県読谷村立歴史民俗資料館当山勢津子さんの記録による)(三章参照)。これはこの端のところで目立てのさいに目がとぶのを防ぐ、ひとつの知恵であろう。粉挽き臼では溝が浅くどちらでもよいのか、まちまちである。「ふくみは、三分ぐらい(8-9@)とかなり深いのも信州から来た石屋さんの信州臼の伝統を感じさせる。(なお十章八王子城跡の臼にもみられる。)

生きた民 具

  辰一さんと田島のおばあちゃんは、蔵の入口に腰かけ臼て昔の想い出話を、ポツリポツリしてくださった。この光景をみていて、ふと明治時代を再現した、のどかな気持にひたることができた。「あそこで挽いたんだよ」と指される方を見ると、次ページ写 真のような挽き木の添え竹をつけた取付木が作業場の天井に残っていた。上日は約35Lもあるからどうしても三-五人挽きでなければいけなかった。

そのそばには石の唐臼、唐箕など古い民具がそのまま残り、まさに生ける民具展示場になっていて、そこにはまだ生活の臭いが残っていた。田島さんの家は明治の建物でこれも調査に来る人が多いという。このままの姿で、いつまで残ることであろうか。こういうところに、ふとポリバヶツなどが転っていると、そのどぎつい色がいかにも異様にみえるものである。それが当りまえになった現代人の心が荒れているのも当然かもしれない。

石屋の田野倉さん

 二度目の訪問の数日後に、石屋の田野倉石之助さんが床屋に来られ、辰一さんが臼のことを話してくださって、筆者は三度び伊奈を訪ねることになった。六月二十一日である。五日市にはもう一面 に青葉が繁り、栗の花の青臭いにおいにむせかえるほどであった。辰一さんとの再会を楽しみにしていたのだが、少々おからだの具合がよくなくて、お休みになっておられたのは、いかにも残念だった。床屋さんの待合には、石臼の記事をのせた「民具 マンスリーがぶらさげてあり、お心づかいがうれしかった。こうしておいてくだされば、また誰かが臼の便りを聞かせてくれるかも……。

 はじめて五日市街道を伊奈へ向った日、途中に墓石を並べた石屋さんがあり、仕事場をのぞくと石臼が一組あったので見学したが、そこが田野倉さんの仕事場だった。「田野倉さんですか」というと「そうだ」と答えられたが、あまり若々しくて、それが八十歳の石之助さんとみえず、少しうろたえた。過日の石臼について聞くと、「あれは山田のケンちゃんとこから、目立てにもってきたものだ」といわれる。今どき目立てとは珍しいが、さいきんは小麦をつくっても、賃挽きしてくれるところがないから、ケンちゃんとこでは石臼を引張り出して使っているのだという。そういうこともあるのかと驚いた。ここでも石臼は生きていた、いや復活したというべきか。 石屋の田野倉石之助さん の軒先に一組置いてあった石臼を見せてもらった。「それは家宝だから売るわけにはいけねエ」といわれる。古物集めの仲間と思われたらしい。こういうことはたびたびあるが、地蔵様と同じように、魂と汗がこもった石臼はやたらと金で買い集めてはいけないと私は思っている。 石之助さんのところの伊奈臼 これは先代以前からこの家にあるもので、目立ては石之助さんがやった。形態も大きさも、先の田島さん宅のと全く同じ。この臼の目は粉挽き用につくられているが、挽き割りにも、そのほか何にでもつかった。供給量 と、芯木の高さの加減でどうにでもなるのである。米一升を粉にするのに小一時間かかったという。

 「ところで横沢に出る伊奈石の丁場を見学したいし、できれば石をとりたいのですが」というと、ここから小一里もある山のてっぺんにあり、よく山を知ったものと一緒でないと行けない。とくに最近は柴(シバ)とりにも入らなくなって、山が荒れ、蛇も出る。見にゆくだけなら秋口がよかろうとのお話。しかし丁場はもう二十五年間も採石していないので、かなり風化しており、新しく切り出すのは容易でではない。「山どり」を知っている ものもいなくなったからむずかしいという。

 その丁場でとれた硬い石を石臼に使い、軟かい石は石碑に使った。しかしこの石は磨いてもあまり艶が出ないので、今は使わない。丁場はここの部落の共有財産になっている。石臼一組つくるのには、山どりしたものからスタートして荒どり一人、仕上げ二・五人、合計三・五人ぐらいかかったが、とくに荒どりがつらい仕事だった。田野倉さんはこの地主れの代々の石屋さんだが、話していて気づいたことは、信州のなまりがたくさんはいっていることだ。たとえば石が風化して新しく石を採るのは容易ではないというのを「たいていだね」という。そのアクセントは全く信州弁を聞くようである。これも信州から来たことの証拠かも知れない。

  大悲願 寺

 辰一さんが連絡しておいてくださったので、次は五日市町横沢一三四の大悲願寺を訪ねることにした。五日市街道に面 する高い石段をのぽりつめると、仁王門が見えてくる。門の両側には地蔵尊が立ち、その向って左側にも石仏が並んでいる。これらの石仏はいづれも伊奈石で、雨あがりのため、青味がかった色がきれいだ。仁王門の土台石も、階段もみな伊奈石で、表層5-10@くらいがボロボロに風化していた。この石は風化しやすいが、それは大悲願寺さん・・・(未完)

三輪茂雄著『増補石臼の謎』(クオリ刊、1994)より

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