リンク:沙漠のブーミングサンド


鳴き砂と石臼は親戚関係 
 京都府網野町の琴引浜は鳴き砂で有名である。そこに2002年の10月20日、琴引浜鳴き砂文化館がオープンした。これで鳴き砂もようやく文化の仲間入りしたわけだ。建物は日本ナショナルトラストの応援で付近の民家に調和した純木造建物である。

親類関係の成立

 ここには石臼挽きによる黄な粉製造実演も計画されている。ここの黄な粉は琴引浜の砂で炒るところがミソで、よそでは真似できないところがすごい。私はかってここでそれをこの地の古老から聞き、実験してみて驚いた。フライパンで普通のように炒ると皮が焦げて黄な粉に苦味がでるが、砂の中で炒ると、それがなくできるから本当の豆の味が出る。鳴き砂の浜砂はきれいだから黄な粉が挽けるのかもと、おなじ鳴き砂の島根の琴ケ浜の砂でやったら、いつまでたっても炒れない。何故だ? おかしいと思ったが、砂が細かすぎて、熱の伝動率が違うほか、もっと別に理由があるかも知れない。特異な赤外線効果かもという人もある。これは焙じ茶を炒るには伊豆の砂が良いとか言うのと同じなのだ。私はかって焙じ茶用の人造砂を考えろと言われたがお客さんが気に入る砂は造れなかった。民俗にはこんなすごい人知の歴史が込められているのだ。しかし現地ではその記憶がほとんど忘れられかかっていた。鳴き砂を守る会の松尾会長が、それまで漬物石になっていた古い臼を2組持ち出して乾燥し、心棒や挽き手を準備して挽こうとするが、いっこうに挽けない。確かに臼の目はちゃんとあるが、駄目だ。まず2組の上臼と下臼が入れ違いになっていた。次に蕎麦挽き用の目らしく、目の幅が狭かった。

 目立て前。ここまででストップ、それ以上進まない。
さもあらんと私が準備していた目立て道具を取り出して、目立て直すことにした。

 私は以前静岡の安倍川もちのメーカーから依頼を受けて石臼を作ったことがあるので自信があった。(この石臼挽き黄な粉はその後長い間静岡駅の売店で実演展示していたので、ご覧になった方もあろう。目の幅を倍に広げ目の形も変えて見た。おそるおそる組み立てて挽いて見る。「オオ出る出る」。豆はスーパーで買ってきた並の大豆だったが、プーンとなんとも美味そうな香り。この黄な粉を翌日の鳴き砂サミットで見せることが出来た。松尾さんは器用だから「あとは儂が粉に学んでやるから、道具を置いてゆけ」と。

 これで鳴き砂と石臼の親類関係が事実上成立した。私は翌日の鳴き砂サミットでそれを報告し「京都先斗町の石臼大明神と琴引浜の白滝大明神の同盟が成立しましたと報告した。(この試作第一号の黄な粉は当日の主催者で司会していた米山さんが東京へもって帰ったという。よほど気に入ったのだろう。

 この黄な粉がこの文化館のお土産品として出るにはまだまだ曲折があるだろうが、とにかく伝統が復活したので私の任務は果たされたようだ。

私と鳴き砂との出会い  
 私が「鳴き砂と言うものを初めて知ったのは、テレビで仙台在住の高校の先生(渋谷 修)が「東北には砂が鳴く浜がたくさんある」と話していたのを聞いたのに始まる。大学で「砂が鳴くってなんだろう。」と学生たちに話したら、ある学生が網野町にもありますよ」という。「そんなバカな。砂が鳴くもんか。ザクザクというだけだ。」というと、そんなら親父に頼んで送ってもらいますよ」。
 真冬だったが、親父さんは大雪の中を、息子のいうことだからと、浜へ出てたくさんの砂を送ってくれた。さっそく息子は研究室で鳴かそうとするが、いっこうに音が出る気配がない。回りにいた学生たちに笑われて彼は残念がった。「おかしいな。音が出るのに。春になったら行って見て下さいよ」。と言って彼はその春卒業した。1971年卒、田中哲三君という。その後埼玉県に移動したが、その後彼の消息は不明のまま。(私に初めて鳴き砂を教えてくれた大切な恩人だが、網野町役場に聞いてもそのような名前の人はいないと。親父さんは転勤の多い勤め人か、それともヒョッとしたら白滝大明神の化身では?)。
 1972年の春が来て、私は初めて琴引浜へゆくことにした。訪問日は不詳だが、そのとき浜へ一歩を踏み入れたときの感触は忘れることができない。ブー、ブー、ブー。 「おや?
おや?おやおや?」10人くらいいた学生たちが、不思議な感触に誘われて驚きの声はいつのまにか、揃って踊り出し、調子を合わせてしばらく踊りながら歩きまわった。この話は中央部の太鼓浜でのことだが、現在の浜辺では信じられないようなよき時代のオトギ話である。           
大自然は巨大な石臼である               
 なぜ鳴き砂が石臼の親戚なのかを説明せねばならない。私は冬の琴引浜に立って打ち寄せる波を見つめていて、下図のような波の運動を見た。

 遠洋から続々浜辺に押し寄せる荒波が、浜辺に激しくぶつかって砕ける様を詳しく見ると、逆流域が存在する。砂浜に駆け登っていった水が逆流し、次に押し寄せる波とぶつかって激しい回転流が生じているのだ。この回転流が砂洗浄の場という発見である。こういう波の渦の速度はだいたい秒速数メートルを越えることはない。つまり渦流の中で砂粒同士が水を介してゆっくりこすれあうことだ。このあたりが、石臼そのものだ。この鳴き砂生成の秘密は、英語でミリングである。適当な日本語が見つからないので、カナ書きだが、下図を見ていただくと、なるほどと分かっていただけると思う。

昔はセメント工場などで見かけたボールミルで、工場では鋼の球をいれて轟音をあげて動いていた。これは搗き臼の機械化の極限である。十九世紀的機械だから恥ずかしいからと、ハイテクの工場で今でも山奥の秘密の工場で実際に動いているのを見た。
 円筒状容器内で、砂と水をゆっくり回転させても同じことだ。決め手は砂粒同士のゆっくりしたこすれあいだ。鳴き砂の砂粒は石英結晶である。一般に石英同士を刃物を研ぐようにゆっくりこすりあわせると、アモルフォスシリカ(無定形シリカ)ができるというのは、化学の常識だ。アモルフォスシリカはわずかに水に溶ける性質がある。
 ここまで書けば面倒なことは別として勘のいい方は手を叩いて「わかった」という。鳴き砂はただ水であらうだけでは、鳴き砂にならない理由もわかるはずだ。しかも砂の表面が異様に光っている秘密も。瞬間的に溶けたシリカがすぐもとにもどる。それが繰り返されると、砂の表面は薄い純粋な石英面で覆われるわけだ。
 なぜ砂が鳴くか
 これはマスコミが必ず発する質問だ。「それは愚問だから聞くな」というが引っ込まない。「それならじっと聞く気があるか」というと「視聴者は長い話ではソッポを向くから駄目だ。うそでもいいから一口で答えてくれ」という。テレビはバカらしい。いつもこのやりとりがあるので、最近は「なぜ鳴くかと聞くな」とはじめから釘をさしておく。
 どこが難しいかというと、砂の「表面摩擦係数」それも「静摩擦係数と動摩擦係数」という一見難しそうな物理学語が出てくるためだ。動摩擦係数は静摩擦係数よりずっと小さいことも予備知識として必要である。HPはテレビではないから、話を続ける。
 海の波が砂を洗うとき、表面を溶かして、再びもとにもどすことを繰り返していると書いたが、それは砂の表面摩擦係数の変化を起こしているのだ。だから鳴き砂に足をつっこむと砂はしばしその圧力に耐えることができる。さらに圧力がかかり続けると、砂は耐えられなくなって、動く。動くのは摩擦係数が動摩擦係数に変わったわけだ。ところが、動いた瞬間、圧力が消えるから静摩擦係数になり、動きが止まる。これの繰り返しが音の振動源になるわけだ。
 このことは鳴き砂をポリ袋にいれて外からそっと指で押してみると指で感ずることができる。こういう現象をステック・スリップ現象(段々辷り現象)という。沙漠の鳴き砂も夜の露が関わっているから浜辺と同じだ。
 ここまでくると多くの方がソッポを向けたくなるが、これで終り。なぜ鳴くかと聞くのでなく、「どうすれば鳴かない砂を鳴かせられるか。」と問えばよいのである。設問の仕方がわるいのだ。こういうことは子供たちに科学的思考を教えるとき大切なことであろう。鳴き砂文化館ではこの鳴き砂を作る機械を展示し動かせるようにして展示するつもりだ。
水車で回して鳴き砂を作る 
 ただし大自然のまねをしようとするのだから、ちょっとややそっとではできない。モータで回すと、伸べ40日くらい連続運転しなくてはならない。しかも途中で水かえの手数がかかる。電気代もたいへんだからと、山形県飯豊町では水車で回転させている。手間賃は気にしない陶芸師が片手間にやっている。蛙砂セットと言って飯豊町の道の駅で販売している。


 山形県飯豊町にある水車利用鳴き砂製造装置

戻る