/リンク:著書『石臼の謎/〔これが索引です)|


 石臼との出逢い (石臼の謎の増補)   (この文書14kB)

 さいきん石仏を訪ねて旅する若者が多いという。その素朴な表情のなかに、現代杜会では失われた何かが秘められているのであろうか。釈迦入滅後56億7000万年経つと弥勤菩薩が現われるという。それまでの無仏時代の五濁悪世にあって、六道の衆生を救うという地蔵菩薩信仰は、現代に生きているようでもある。
 筆者は信仰心をもち合せていなかったし、現代生活にいや気がさしても、まだ疲れてはいないから、石仏など訪ねる気持は毛頭なかった。ところが最近になって石仏が気になり出し、各種石造物研究者の方々とも知り合いになって、一緒に調査に出かけるまでになった。ずいぶんまわりくどい道だが、石臼-石工-石仏という経路で路傍の石仏に野花を生けるまでになった。

私のふるさとの尼寺で見た石仏

 ところで、私と石臼との出逢いは今から30数年も前のことになる。粉砕機について研究していたので、その祖先としての石臼に興味をもち、実家にあった石臼と、近所の家のとを調べてみた。つぎに長野県からもって来た石臼、これは新しく目立てしてもらった石臼だった。も一つ長崎からも送ってもらった。

 その結果石材や形のちがいのほかに、8分画と6分画とがあることに気づいた。前者は中心から8本の線がそれぞれ45度の角度をして放射状にのびている。後者は6本の線が60度の角度をなしてのびている。以後、このような目のパターンが全国的にど 分布しているのであろうかという疑問をもって、全国を歩きまわることになった。しかしそれを追求することがそれほ重要であるとは、その後十年あまりのあいだ考えてもみなかった。もしそれがわかっていたら、学位論文を石臼で書いたかも知れない(筆者の学位論文は「ふるい分けに関する研究」であったから、実は臼とは隣同士であったのだが)。

京友禅の石臼
 昭和48(1973)年の夏、産業技術センター刊の『最新粉粒体プロセス技術集成』という本の編集を進めていた。この本は47業種にわたる現代産業のなかで、あらゆる種類の固体物質が、粉粒体の形で扱われるさい、どのような機械装置が使われているかを中心にまとめた書物で、まさに現代技術の集大成をなすものであった。不思議な縁とでも言うか、その最中に元禄時代から続いていたひとつの伝統的な粉粒体プロセスが、その長い栄光の歴史を閉じ、最新式の粉砕機を中心とするプロセスに席をゆずる事件があった。それを知らせてくれたのは、最新式の粉砕機の粉砕機を納入しようとしている会社(不二パウダル株式会社)のエンジニアだった。それは京友禅染につかう餅米の糊を製造している京都市猪熊通り四条上ルにある工場(松伊製糊、太田伊太郎社長)であった。幸い動いている石臼を見る最後の機会をえることができ、出版社の社長らとともに訪ねることになった。

 古くから友禅染につかう糊は、搗き臼や挽き臼で粉砕した餅米を原料として使ってきた。この糊は染め終わると洗い流される。河川の汚染が問題にならないのどかな時代には鴨川の風物詩ともなった。世の中の舞台裏を支える縁の下の力持ちが粉の世界だという典型であった。小麦製粉を中心とする製粉業界では、大量生産を目ざして粉砕プロセスには高速回転のロールや衝撃式のミルが導入され、その技術が糊原料の製造にも応用されるようになると、それまで主力を占めてきた搗き臼や挽き臼は次第に駆逐される運命をたどり、1960年ごろまでに、そのほとんどが姿を消していった。だが、その品質、糊の粘着力においては高速ミルの製品は、臼でつくられたものには遠く及ばなかった。これは植物性原料の粉砕について一般にそうであるが、高速粉砕のさいに局所的に発生する熱による成分の分解が主原因とされている。そのため高級友禅染の場合、きれいに出さねばならぬ細い線などを出せるとういう利点があって、臼による製品は珍重されてきた。そして最後にはこの工場だけとなり、細々とその伝統を守りつづけてきたのであった。

 石臼は花崗岩(岡山産万成石)製で、直径2尺1寸(630mm)。上臼の厚み300-400mm、上臼の重さ約300kgであった。樫の木製の歯をもつ歯車で毎分33-37回転させる。4組の臼で30メッシュふるい下を1日1トソ生産していた。臼の目は毎週一回の目立てが必要である。昔は石臼を運転する人を「おやじ」と呼び、目立kても自分でやった。

 これは名人芸であって他の人にはでできなかった。素人が目立をしたのでは、うまく粉砕できず、餅米はかきもち状(固化)になってしまうという。現在では目立てのできる職人は高令の一人になってしまい、その技能をつぐ者はいないという。

 目の形には流儀があり玄米は丸めで谷を浅く、白米はシャープな峰を残すというように原料に応じて変化させる必要があった。原料の米を入れた状態では、石臼はきわめてスムーズに回転し、よくつぶれているときは「シー」という粉砕音がするので、それを運転の目安にした。供給量には最適値があり、それより多すぎても、少なぎてもいけない。石臼で粉砕した粉は「むっくりした粉(京ことば)」ができるという表現していた。

 それにたいし、最新式と称する現代の粉砕機ではどうしてもそういう粉にならない。しかし生産能力が低くて、とても経済的にひき合わないというのが第一の理由、第二には目立て職人の代りがいないという理由で、石臼は引退した。

 ここで考えさせられたことは、現代技術の生産性第一主義的傾向である。経済と力ずくで勝負する社会ではどうにもならないことかもしれないが、量と質の両面でそれに代り、優る技術であであってこそ本当のすぐれた新しい技術といえるのであって、現代の粉砕技術はまだまだなのだ。ほんとうの優れものが見出されないままに、力ずくで消滅させられるのは、現代人の非力さの一面を見ているようで、筆者はいかにも寂しいと思った。それは古墳群や数多くの遺跡が土地造成のブルドーザーによって無残に破壊されるさまに、あまりにもよく似ているからである。臼の目を刻むといったような伝統的な技能に含まれた、貴重な人類の知恵の集積を、何の保存手段も構ぜずに捨て去ってはいけない……。新技術の開発にかける情熱と同等のものを伝統技術の保存にかけようと決心したのはこのときであった。

 しかし具体的に保存策を考えるに当って、いくつかの難問が生じた。たとえば民具館のように石臼だけを保存するのは易しいが、目立ての技能と、運転方法も残し、いつでも粉をつくれる準備がなくては、形骸を残したにすぎなくなる。大学で工場の全体を保存することは場所的にも、予算的にも無理なので、臼を中心とする基本部分だけ一組分を、今まで据付を請負っていた岸本工作所(京都市中京区御池通西大路東入ル)の手で同志杜大学に装置として組立ててもらった。

同志社大学の粉体工学実験室に設置された友禅糊の石臼

 架台も木製にしたかしかったが、臼の特性に影響がないのでこれは鉄製とし、歯車部分だけは樫の木製にした。歯車によって少し臼を上に持ち上げる力がかかるので、据え付けの際、石臼を少し傾斜させることも教わった。これで餅米の粉砕実験を行ない所定の粉砕ができることを確認した。

 次の大問題は目立ての技術の伝承であった。これは一朝一夕にできることではない。名人を養成せねばならないのだ。そこで今までその臼の目立てをやって来た石工の谷和助さん(当時74才)に大学へ来ていただいて目立てを実演してもらった。谷さんは広島出身の方だが、16歳の頃から京都白川の石屋の「丁稚〔弟子)」に入り、ずっと 石屋をやってこられた方だった。いろいろ話しをしたり、仕事の手伝いをするうちに、谷さんは「あんた、出来るじゃないか」と。そこで私が石臼づくりを習うことになった。素人がいきなり年期のいる石屋を習うというのは乱暴な話であるが、谷さんの勤めておられる大島石材店のご好意で、手ほどきから教えてもらう機会ができた。約一年間私はキャンパスで石工修業をすることになった。 以上のような経緯から、全力をあげて石臼ととり組まざるを得ない状況になってしまった。

学問の谷間

 石臼に関する従来の研究について、本格的な文献調査をしなければならないが、工学の分野では石臼は現在では完全に過去の遺物であり、最近の工学書からは全く姿を消して、古い本に僅かにふれられているだけ古本屋で手に入れた京都大学の亀井三郎先生の著書『粉砕』は昭和18年に発刊されたものであり、その種本がドイツの書物であったこともあって小麦製粉につかわれたヨーロッパの工業用挽き臼の記述がある。序文には挽き臼の発明はローマ時代と書かれていた。          

 いったい、石臼の研究はどういう学問分野にあるのかもわからず、色々な分野の先生方を訪ねることになり、行く先々で紹介していただいた。手始めに訪ねた同志社女子大学の林淳一先生(食物学)は、「いまどき石臼は女子大にはありませんよ。それは歴史だから」と『中国食物史』の篠田統先生を紹介していただいた。即座に京都市内のお宅を訪ねようと電話すると、「近くに来ればすぐわかるよ。屋敷に大木を生やしているバカはおらんからな」と。篠田先生は当時73才であった。飄々とした方で、「わしは本に部屋を取られて、縁側住まいだよ」と書棚脇の応接間でお話することになった。「わしは食物学だから、石臼のことはよく知らんよ。でも臼は大事だと思っていた。君徹底的にやりなさい」と言われるので、「私は聞きに来たのですが、これはミイラとりが、ミイラになるとは、このことですね」というと、「学問というのはそういうもんだよ。君それは誰もやっていないから最高のテーマだよ。やるならトコトンやりなさい」と。それでもなにかいうと本棚を探して「これこれ」と重要文献を出される。そのうち、「私の仲間を紹介するから、」と『中国農業史研究』の追手門大学の天野元之助先生、関西大学の柴田実先生(考古学)、石造美術で有名な大手前女子大学の川勝政太郎先生、天理大学の今西春秋先生(考古学)、大阪市立博物館の平山敏治郎館長、武蔵野美術大学の宮本常一先生などを紹介していただいた。そして「訪ねるときは気をつけろよ。どいつもこいつも一癖も二癖もある変わり者揃いだからな」。老大教授に会うと、いずれも老大家だからさあ大変だと思った。

 川勝政太郎先生はご自宅を訪ねたとき、庭園の大先生だからさぞかし大邸宅かと思っていたら、意外にも小さい応接間であった。紺屋の白袴だ。先生はさっそく室生寺や四国の夢窓国師ゆかりの茶臼を紹介していただいた。いずれも先生が「それぞれの縁の下に潜って見つけたんだよ」とお話になったものだ。研究の裏話である。 

石臼研究会

 信州大学の田原幸三先生(美学)、京大人文科学研究所の山田慶児先生(科学史)、関西大学の末尾至行先生(経済地理学)、同志社大学の森浩一先生(考古学)、横山卓雄先生(地学)、市川亀久弥先生(創造工学)というように、訪問ぐせのついた人間になって石臼研究についての助言を求めて歩いた。また日本科学史学会でも、石臼に関する発表の機会を得、それぞれ、文献や関連のある研究者と知合いになる契機となった。そして短い期間にたくさんの知識を得ることができたのは幸いであった。これらの訪問を通じて、工学の分野に閉じこもっていたのでは絶対にお目にかかれないような文献に、関連する論文や記事がのっていることを知ることができた。また石臼の研究に一見関連のないような学問分野にも深いつながりがあることを学んだ。それと同時に、石臼に興味をもったお蔭で、このようないろいろな分野のかたがたとお話できる機会が得られたわけでこれだけでも、石臼研究の魅力はすばらしいと思う。さらにまったく偶然であるが、筆者の自宅のすぐ近くに、京都府立茶業研究所の大西市造氏のお宅があり、抹茶臼についての広い知見がえられたこと、それに近所に中川胡粉さんがあることも、臼と切っても切れない怪しい縁を感ずるのである。

 次にヨーロッパの石臼に関する資料については、小麦製粉業界のかたがたのお世話になった。もと日清製粉(株)におられた、今井美濃夫氏からは製粉技術の古典、コズ、ミンの著書をお借りした。また同氏を通じて、日清製粉の中川宏氏、長尾精一氏、豊田隆三氏、製粉振興会の清水弘煕氏らから、小麦製粉関係の石臼に関する多数の文献を賜った。同社の館林記念館については別に紹介する。また日本製粉(株)の宮本昇氏からは、製粉技術の古典デットリックの著書のコピーをお送りいただき、また同社門司工場の山本秀夫氏は、札幌植物園に保存されているフランス製の石臼のことなどお教えねがった。
全国各地からの便り

年の早々、東京・港区三田二丁目にある日本常民文化研究所の河岡武春先生を訪問したが、これは民具学に関連する全国の数多くのかたがたを紹介していただく機縁となった。その後武蔵野美術大学の宮本常一先生の研究室で、佐渡の挽き臼の研究をした石の会の北村誠一.富田清子・段上達雄の三氏や、文化庁の天野武氏、東京教育大の佐野賢治氏ら多くのかたがたに出会うことができた。また次の各氏から各地の状況をお教えねがった。松井恒幸氏(旭川郷土博物館)、油谷満夫氏(秋田県平鹿町)、田中忠三郎氏(青森県三沢市ポ"康瀞民俗博物館)、高橋九一氏(盛岡市、前二戸市郷土資料館長)、犬塚幹士氏(鶴岡市、致道博物館)、板垣英夫氏(山形県立博物館)、遠藤太郎氏(米沢市)、天沼真理子氏.(宇都宮、郷土資料館)、大塚和義氏(埼玉県立博物館)、滝沢秀一氏(新潟県、津南町役場)、渡辺奎二氏(新潟県、黒埼町常民文化史料館)、北方文化博物館(新潟県)、青木則子氏(佐渡、相川郷土博物館)、林道明氏(佐渡、小木民俗博物館長)、小島弘義氏(神奈川県、平塚市博物館)、大村和男氏(静岡県、登呂博物館)、名倉乙矢氏(浜松市民俗資料収蔵庫)、安和守政氏(長野、戸隠民俗館)、桐原健氏(長野県教育委員会)、中田美稔氏(長野県、飯田市竜丘民俗資料館)、橘正一氏(輪島市立民俗資料館)、菅沼晃次郎氏(滋賀民俗学会)、今岡太久馬氏(大和高原民俗館)、松崎憲三氏(奈良県立民俗博物館)、玉置善春氏(和歌山県埋蔵文化財調査委員)、畑伝之助氏(島根県、広瀬町民俗資料収蔵庫)、八幡静男氏(隠岐郷土館)、波多放彩氏(山口県阿武川歴史民俗資料館)、高橋克夫氏(香川県、瀬戸内海歴史民俗資料館)、中野万吉氏(徳島県×小西国太郎氏(徳島県)、石川重平氏(徳島県)、泉房子氏(宮崎県総合博物館)、小野重

朗氏(鹿児島市原良町)、菊千代氏(鹿児島県、与論民芸民具館)、上江洲均氏(沖縄県立博物館)、当山勢津子氏(沖縄県、読谷村立歴史民俗資料館)、松久嘉枝氏(美濃民俗文化の会)なお本書のなかで詳しく訪問記を書いたかたがたはここでは省略させていただいた。こうしてみると、日本は狭いようで広い。それぞれいますぐにもお訪ねしたいところばかりである。

(これは1975年に『石臼の謎』(を書いた時の文である。引き続きその後の情報を『石臼探訪』(1978)に書いた。

戻る