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室生寺の茶磨

 1976年11月といえば石臼研究をはじめたころのこと。石造美術の権威(故)川勝政大郎先生のお宅にうかがった時、,室生寺の茶臼のことをお聞きした。先生が石造物調査で,寺の縁の下に放置してある茶臼があったとう。「石造美術研究は縁の下もぐりが要るんだよ」とお聞きした。「室生寺の執事さん、伊藤教如氏を訪ねて,例の茶臼をみせて下さい,といえばわかる」と紹介して下さった。そこで伊藤さんにお手紙差上げたところ,さっそくご快諾の便りを下さった。長谷寺の宿を朝早めに出たが,帳場の勘定がとてものんびりで参ってしまった。長谷寺駅まで約1.5キロを駈歩で,しかも上り石段だからやり切れない。一時間に1本しか電車は出ていないので息をきらしてやっと間に合った。近鉄室生口大野駅を下りるとバスがある。とびのろうとすると,タクシーの運ちゃんが大声で,「そちらは満員でのれませんよ,どうぞ」という。ほんとうに室生の人達は親切だと思う。道中、宇陀川の渓流をはさんで大野寺の対岸室生寺の崖に,高さ約13.5mの弥勒磨崖仏がある。線刻だから,余りはっきり見えないが、承元3年(1209)に,著名な石工,伊行末一派がつくったと伝えられている。さらに山道を数キロ入ったところに室生寺がある。室生川にかかる朱の太鼓橋を渡ると「女人高野室生寺」の石碑がみえてくる。紅葉の季節の日曜日とあって参詣者も多かった。ちょうどその前々日,東京新聞に長谷寺と室生寺の紅葉の記事が半頁をさいて出たばかりなので,たぶん東京からの客も多いのだろう。奈良時代末に建てられて,もともと奈良の興福寺と関係ふかかったが元禄11年に分離し,その頃から女人高野と呼ばれるようになったという。

.室生寺の茶臼
 伊藤さんを訪ねると,さっそく茶臼のある座敷へ案内して下さった。火鉢と座ぶとんがきちんと並べられ,外には美しい庭園があって,紅葉の向うに朱ぬりのお堂が見える。「どうぞごゆっくりお調べ下さい。私はお経をあげてこなければなりませんので」と席を外された。寒い寒い部屋であったが,筆者はいつかは京都でお坊さんになってお寺で暮したいという願いをどこかに抱いていた。だからとてもたのしいひとときだった。さすがに見事な臼である。蓮弁模様は,郡山城趾でみたものとほとんど同じ大きさのものであった。しかし目は8分画10溝で,現存の抹茶臼と同じく周縁部に達しないもので目立ては,郡山のものに比べて後世のものであろうか。、上臼の高さもかなり低くなっている。石は輝緯岩で暗緑色である。郡山城のものと,もしかすると同じ時代のものかも知れないという期待ははずれた。しかし中国伝来ではないかともいわれている。

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