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日向薬師の臼(奉納されている石臼や箕などと久しぶりに対面した)
今にして思えば私の石臼探訪のはここからスタートした
。
関東の三大薬師寺の一つに数えられるという日向薬師は私の石臼探訪の初期に訪ねた場所の一つである。.新宿から小田急電鉄で,わずか一時間の伊勢原に,関東に残る心のふるさとがあることをご存知の方は案外少ないのではないか。まして粉体工業のふるさとの名残があろうとは,はじめての発見だった。1974年の秋、秋風が心地よく相模平野を通リすぎてゆく晩秋の日曜日,小田急の伊勢原駅におリ立った。めざす日向薬師霊山寺は大山からわずか東にそれた山の中腹にあリ,バスで約15分山麓に近づくと,小さくて古風な部落があリ,終点薬師前につく。.茶色に色ずいた山並に,杉木立の緑ともみじが美しく紅をそえて,行く秋を惜んでいるようだった。そこから細い参道が続き,両側にある農家の庭さきの柿の実が美しく,それに山茶花(さざんか)が咲いていた。脱穀機の音に混じり、牛の鳴き声が「モウー」と迎えてくれた。それに放し飼いのにわとりが二羽,餌を啄ばんでいるのをみて,久しく忘れていた"ふるさと,,が急に身のまわりに蘇ってくるのを覚えた。
長い参道
やや険しい石段を登ると,すぐ山門がみえてくる。.天保4年の建立という朱塗リの仁王様が,大きな目で見下していた。
静かな木立の間に岩はだを削って作った段々がうねうねと導いてくれる。ここは夏にはうすく苔むして,また別な風情をそえてくれるところだ。杉の木の根っこをのぞいてみると"蟻地獄”がいくつか安息角をつくっていた。.やがて本堂に通じる正面の石段下に達し,静寂の気が満てくると,その奥に日向薬師の本堂,右手には大きな杉が二本見えてくる。この杉は幡掛(ばんかけ)の大杉といい,下は一本の根元で二本に分れたもので,周囲7メートル位,高さ50メートルにおよび,樹齢800年といわれる。そのすぐ隣リに古い鐘楼があり,重要文化財の梵鐘がかかっている。.暦応3年(1340年)物部光連の作と伝えられるが,私は恐る恐るひとつついてみた。ゴーンと静かな山並みに鐘の音が響き渡り、鐘樓が壊れはしないかと、思わずあたりを見回していた。
6分画で東京地域特有の挽き手取り付け法だった
本堂に詣でてから,なにげなくあたリを見まわしていると,大八車(だいはちぐるま)が一台,そして大きな箕が一つ目にとまった。
坊やとくらべてその大きさがくわかる巨大な竹箕(み)
こんな大きな箕は何に使うのかなあと思いつつ,これが風選機の元祖だという話を思いだした。その奥にも何やら田舎で以前みたことがあるような物がみえたので,薄暗い中にわけ入ってみると,なんと石臼が二組,籾摺用の唐臼が一組,万石どうしと……いろいろ目にとまった。
籾摺り専用の土臼
万石通し
さっそく力メラを持ち出したが,とても暗くてどうにもならない。.お寺の方をみつけて,本堂の外にもち出して埠影することを許していただいた。それぞれには寄進者の名札がついているので,きっと近くの方々が寄進されたらしい。お寺に寄進した人たちの思い入れは民具館では満たされないのかも。
堂の仏像は,すぐ西側にある宝物殿に安置されてる。大きな薬師如来,その両側に日光菩薩と月光喜薩.そして正面本尊の両側いっぱいに四天王,十二神将が並んでいる.この薬師三尊像の前に立って,じ一っと見入っていると,仏像のまわリが明るくなってくるような気がしてくるのはうれしい。とくに,日光,月光両菩薩のなんと慈愛にみちたお顔だろう。私は息苦しさを覚えるようだった。この薬師樣は一名瑠璃光如来ともいい光を失った目に天来の光を授けるといわれ,'
"さして来し,
日向の山を頼む身は
目も明らかに見えざらめやは
という相模集の歌が伝えられている。
拝観を終った私は,裏山を登リ雑木林の細い道を歩いて広沢寺に出ることにした。力サカサと落葉をふみ,急な坂道を登っていくと,枝から枝へと野鳥が飛びかい,時折けたたましく鳴く.途中、岩のほこらの中に石仏があった。なんの仏かわからない。ようやく頂上につくと,伊勢原,厚木方面の町が一望にみえた。
ひと休みして山を下る。秋風が一面のすすき野を吹き過ぎ,雲間から明るい陽ざしが,雑木林を,そしてすすき野をてらす.眩しいほどの美しさだった。しぱらくおリて行くと,風の音,小鳥'の声にまじってせせらぎが聞えてきた。急いで漢流のほとリに出ると,大きな岩の間を澄みきった水が流れている。私は流れにそっと手を入れてみまた。.冷んやリと汗ばんだ体にここちよくしみわたる。川底の青い石が美しい。私は小さな青い石を一個拾ってきた。いまもわが家のテレビの上のコップの中に,あの渓流で拾った青い石が静かに入ってる。
〔粉体と工業誌記事 (1974年4月号)
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