搗き臼の巨大化の可能性

以下の図は同一スケールで書いてある。

これは考古学者が発掘した古代の遺跡から出た石臼である。これに似ている。これだけ見ると古代人が石ころを杵代りに使ったものだと考える。

 しかし実は下図のようにして使われていた。上には大きな杵があった。愛媛県伊予郡砥部町川登の袖師焼に使う原料の陶石などを粉砕していた。鉄の混入を嫌うから,石でなければならないが,大きな石は大変だ。そこで下の略図のように,臼は底だけを石にし,周りを囲えば,衝撃力がかかるのは底だけだからそれでいい。

ナルホド。現在はすべてボールミルに変わっていた。

 

このように

 その目で見れば,下記の2種類の遺物も同じ考えで使い方が分かってくる。

下は私の郷里(岐阜県養老郡上石津町)にあった例である。底石だけが残り,上は壊れやすいので,紛失していた。底石だけ見たら何に使ったものか分からない。長い間不明のままだった。袖師焼の知識を得てから,上の桶を探していたら,それは陶器だったが,美しい釉薬があるので,骨董屋に売ってしまったという。桶でもよいと。

 これと同じものを全国で探していたら,たまたま岡山県の竜野町で見かけた。「これ臼ですよ」と言ったが誰も知らなかった。単なる庭の飾りものになっていた。それ以外には見ていない。是非見かけたら情報を頂きたいものだ。重いから欲しくはない。

つぎに韓国のソウルの骨董屋で下の遺物を見た。骨董屋が石の部分だけを吸い殻入れに使っていた。多孔質の溶岩らしい石なので聞いてみると,骨董屋は下図の形だったという。木鉢は捨ててしまってない。しかもその店にあるものはもっと小さい。大人が仕事しているとき子供に与えて,まねさせるのだという。私はまだ本物の石臼も木鉢を見ていない。

 砥部白磁で有名な砥部焼(愛媛県伊予郡砥町)は、安永4年(1775)藩主加藤泰侯の奨励によりはしまったともいい、さらにさかのぼって慶長年間(1596-1614)に朝鮮から渡来した陶工が伝えたともいわれている。陶石を原石とし、これを粉砕して用いる。  この地の陶石は白色と褐色とがある。現在では大部分がボール-ミルに代ったが、砥部町川登の佐川製陶所ではいまでも臼杵でついている。  七本杵の乾式粉砕を行なってから、ついで15本杵で湿式粉砕する。杵は一辺9.5Bの角材、長さ約2.5mで、先端には鋳鉄がつけてある。揚程は30B。全部乾式粉鼎の方がよいが,粉じん発生のため一部は湿式に変った。湿式にすると、混入しているケイ砂の粗いのが臼の底に沈降するので、粉砕がうまくゆかない。これを溢流式の水簸槽で分級してから、フィルタープレスで脱水すると、陶土になる。このような工程を経たものはもっばら自家用にし、別に販売用のはペブルボールミルをつかっているが、質が落ちる。今は電動機だが1975年までは水車を使っていた。水害で川底が上り使用不能になった。今も水車は残っている。水車の直径4m、幅80B。昔はこのような方式がひろくつかわれていたので、海野製陶所には臼石だけが保存されている。これはこの地方で油石とよぶ硬い石であり、凹みがあるのは、杵でついて出来たもので、はじめは平らな石であった。臼はコンクリートでまわりをかこってつくった。

戻る