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京友禅用の糊製造工場

 京友禅染につかう餅米の糊を専門に製造している京都市猪熊通り四条上ルにある工場があった。1973年の夏だった。幸い動いている石臼を見る最後の機会をえることができ、産業技術センターの松本幸和氏らとともに訪ねることになった。これについては松伊製糊の太田伊太郎社長の御好意によるところが多い。古くから友禅染につかう糊は、搗き臼や挽き臼で粉砕した餅米を原料として使ってきた。小麦製粉を中心とする一般製粉業界では、大量生産を目ざして粉砕プロセスには高速回転のロールミルや衝撃式のミルが導入され、その技術が糊原料の製造にも応用されるようになると、それまで主力を占めてきた搗き臼や挽き臼は次第に駆逐される運命をたどり、1960年ごろまでに、そのほとんどが姿を消していった。だが、その品質、糊の粘着力においては高速ミルの製品は、臼でつくられたものには遠く及ばなかった。これは植物性原料の粉砕について一般にそうであるが、高速粉砕のさいに局所的に発生する、熱による成分の分解が主原因とされている。

 そのため高級友禅染の場合、細い線とか、縁がきれいに出るという利点があって、臼による製品は珍重されてきた。そして最後にはこの工場だけとなり、細々とその伝統を守りつづけてきたのであった。石臼は花崗岩製で、直径二尺一寸(630mm)上臼の厚み三〇〇-四〇〇mm、上臼の重さは約三〇〇kgである。樫の木製の歯をもつ歯車で毎分33-37回転させる。四組の臼で120メッシュ・ふるい下を一日一トン生産し、臼の目は毎週一回の目立てが必要であった。昔は石臼を運転する人を「おやじ」と呼び、目立ても自分でやった。これは非常な名人芸であって、他の人にはできなかった。素人が目立をしたのでは、うまく粉砕できず、餅米はかきもち状になってしまったという。

 現在では目立てのできる職人は高令の一人になってしまい、その技能をつぐ者はいない。目の形には流儀があり、玄米は丸めで谷を浅く、白米はシャープな峰を残すというように原料に応じて変化させる必要があった。原料の米を入れた状態では、石臼はきわめてスムーズに回転し、よくつぶれているときは「シー」という粉砕音がするので、それを運転の目安にした。供給量には最適値があり、それより多すぎても、少なすぎてもいけない。石臼で粉砕した粉は「むっくりした粉」ができるという表現をしている。それにたいし、最新式と称する現代の粉砕機ではどうしてもそういう粉にならないというのである。

 しかし石臼の生産能力は低くとても経済的にひき合わないというのが第一の理由、第二には目立て職人の代りがいないという理由で、石臼は引退した。ここで考えさせられたことは、現代技術の生産性第一主義的傾向である。経済という力ずくで勝負する社会ではどうにもならないことかもしれないが、量と質の両面でそれに代り、優るものであってこそ、ほんとうのすぐれた新しい技術といえるのであって、現代の粉砕技術はまだまだなのだ。ほんとうに優るものが見出されないままに、力ずくで消滅させられるのは、現代人の非力さの一面を見ているようで、筆者はいかにも寂しいと思った。それは古墳群や数多くの遺跡が土地造成のブルドーザーによって無残に破壊されるさまに、あまりにもよく似ているからである。臼の目を刻むといったような伝統的な技能に含まれた、貴重な人類の知恵の集積を、何の保存手段も構ぜずに捨て去ってはいけない……。新技術の開発にかける情熱と同等のものを伝統技術の保存にたいして、かけようと決心したのはこのときであった。

 しかし具体的に保存策を考えるに当って、いくつかの難問が生じた。石臼だけを保存するのは易しいが、目立ての技能と、運転方法も残し、いつでも粉をつくれる準備がなくては、形骸を残したにすぎなくなる。大学で工場の全体を保存することは場所的にも、予算的にも無理なので、臼を中心とする部分だけ一組分を、今まで据付を請負っていた岸本工作所(京都市中京区御池通西大路東入ル)の手で同志社大学に装置として組立ててもらった。架台も木製にしたかしかったが、臼の特性に影響がないのでこれは鉄製とし、歯車部分だけは樫の木製にした。これで餅米の粉砕実験を行ない所定の粉砕ができることを確認した。

 次の問題は目立ての技術の伝承であるが、これは一朝一夕にできることではない。名人を養成せねばならないのだ。とにかく今までその臼の目立てをやって来た石工の谷和助さん(1975年当時74歳)に来ていただいて目立てを実演してもらった。谷さんは広島出身の方だが、16歳の頃から京都白川の石屋の「丁稚(でっち)」に入り、ずっと石屋をしてこられた方である。いろいろ話しをするうち筆者が石臼づくりを習うことになった。素人がいきなり年期のいる石屋を習うというのは乱暴な話であるが、谷さんの勤めておられる大島石材店の御好意で手ほどきから教えてもらう機会ができた。以上のような経緯から、全力をあげて石日ととり組まざるを得ない状況になってしまった。

学問の谷間
 石臼に関する従来の研究について、本格的な文献調査もしなければならないが、工学の分野では石臼は現在では完全に過去の遺物であり、最近の工学書からは全く姿を消して、古い本に僅かに触れられているにすぎない。亀井先生の著書『粉砕』は昭和18年に発刊されたものであり、その種本がドイツの書物であったこともあって小麦製粉につかわれたヨーロッパの工業用挽き臼の記述がある。序文には挽き臼の発明はローマ時代と書かれている。いったい、石臼の研究はどういう学問分野にあるのかわからず、色々な分野の先生方を訪ねることになり、行く先々で紹介していただいた。同志社女子大学の林淳一先生(食物学)、『中国食物史』の篠田統先生、『中国農業史研究』の追手門大学の天野元之助先生、関西大学の柴田実先生(考古学)、石造美術で有名な大手前女子大学の川勝政太郎先生、天理大学の今西春秋先生(考古学)、大阪市立博物館の平山敏治郎館長、信州犬学の田原幸三先生(美学)、京大人文科学研究所の山田慶児先生(科学史)、関西大学の末尾至行先生(経済地理学)、同志社大学の森浩一先生(考古学)、横山卓雄先生(地学)、市川亀久弥先生(創造工学)というように、訪問ぐせのついた人間になって石臼研究についての助言を求めて歩いた。また日本科学史学会でも、石臼に関する発表の機会を得、それぞれ、文献や関連のある研究者と知合いになる契機となった。そして短い期間にたくさんの知識を得ることができたのは幸いであった。これらの訪問を通じて、工学の分野に閉じこもっていたのでは絶対にお目にかかれないような文献に、関連する論文や記事がのっていることを知ることができた。また石臼の研究に一見関連のないような学問分野にも深いつながりがあることを学んだ。それと同時に、石臼に興味をもったお蔭で、このようないろいろな分野のかたがたとお話できる機会が得られたわけで、これだけでも、石臼研究の魅力はすばらしいと思う。

さらにまったく偶然であるが、筆者の自宅のすぐ近くに、京都府立茶業研究所の大西市造氏のお宅があり、抹茶臼についての広い知見がえられたこと、それに近所に次章でのべる中川胡粉さんがあることも、臼と切っても切れない怪しい縁を感ずるのである。次にヨーロッパの石臼に関する資料については、小麦製粉業界の方々お世話になった。もと日清製粉におられた、当時オリエソタル酵母工業社長の今井美濃夫氏からは製粉技術の古典、コズミンの著書をお借りした。また同氏を通じて、日清製粉の中川宏氏、長尾精一氏・豊田隆三氏・製粉振興会の清水弘熙(あき)氏らから、小麦製粉関係の石臼に関する多数の文献を賜った。同社の館林記念館も訪ねた。また日本製粉の宮本昇氏からは、製粉技術の古典デットリックの著書のコピーをお送りいただき、また同社門司工場の山本秀夫氏は、札幌植物園に保存されているフランス製の石臼のことなどお教えねがった。また『石臼の謎』出版以来現在まで、ほとんど総べての調査と出版で献身的な貢献をした井上良子さん(現在さいたま市在住)の存在があったとこを述べておく。
(以上 著書『石臼の謎』より)

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