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秘伝書追跡調査

 たまたま筆者の研究室の学生だった寺井義和君が金沢市出身だったので帰省の際にどこか有名なお茶屋さんに立ち寄って『磑術』について聞いてもらうことにした。1977年8月初旬同君が米沢茶店(金沢市東山3-2-20)米沢喜六氏を訪ねたところ、文書に出てくる人物の名が確認できた。同氏の著書『加賀茶業の流れ』(1976年刊)に出ている。さっそく8月20日に金沢へ。この店は京都にある茶店と同じく大きな構えの伝統的な店で、店頭には3台の電動抹茶臼が動いていた。手挽きの茶臼は2組あって、その一つは「金垂れ」の宇治石製で、基台部底面に墨書で「莵道」とあった。そこは筆者の現住所近くで昔この地に茶臼師がいたと伝えられている。金垂れとは輝緑岩中に黄鉄鉱が含まれている場合に金色の小さな結晶がみられるので珍品扱いされた。

 この方を通じて幻の文書『磑術』の原本に一歩近づくことができた。氏は宇治茶業研の写しをよまれて、次のことを調査して下さった。稼堂老人とは、本名黒木植、金沢長町七番丁住、漢学者、国文学者、熊本高等学校教授、朝鮮に長く居住、雅号稼堂または衆白堂、稼堂双書24冊が金沢市立図書館にあり。「同町の野島氏書林なれば……」とあるのは、野島守真氏のことで、現裏千家業躰、野島宗禎氏の先代(文書にある堤町から移られて早見町在住)。したがって幻の文書は、ここに眠っている可能性が強くなった。お宅を訪問したが、ご主人は出張中でお会いできなかった。たくさんの古文書がある由で、すぐに出していただくわけにはゆかないと。「庄田晴江、通称次郎兵衛」については、明治六年に茶商売社中が寄進した尾山神社の鳥居に庄田次郎……」と刻まれていることを確認した。兵衛の2文字は消えて判読しがたい。茶臼をゆずりうけた「富田氏」とは有力茶商富田長右衛門氏で、同家の古文書は金沢市立図書館に寄贈されていた。その古文書は厖大で整理に20-30年かかる。整理済みまで閲覧不可との返事だった。すでに訪問後20年は経過した。また「焼物師の呉三」とは「呉山」のミスで本名原呉山氏、焼物師として有名だったという。

 先生なればとて借用した稼堂老人(黒木 植氏)か、さもなくば富田長右衛門氏の古文書の中にあるはずだ。

(これについて消息をご存じの方があったら、下記あてご連絡いただければ幸いです)

 ウ611 宇治市明星町1-13-18 三輪茂雄 Tel.Fax.0774-23-1481

2005年6月現在も全く不明のままだ。

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