「アメリカにだまされるな」(このファイル36kB:A4で9ページ)

  これは日本の石原慎太郎都知事ではなくオランダのウオルフレン氏が日本人に警告している。

  福島範昌訳(ダイヤモンド社刊,2000.12.7)1800円

Karel van Wolferen"American's Political Mission, The New Economy and Japan"

の和訳本。過激な題名であるが、英文は「アメリカの政策的伝道-ミッションニューエコノミーと日本」 ダイヤモンド社の本だからビジネスマン向けの本だ。それも20-30代の世代にターゲットをおいているという。

 オランダ人の著者は中近東、アジア諸国経由で日本を拠点にして活躍したジャーナリスト。アメリカは日本にアメリカ流(アングロサクソン)資本主義を伝道(ミッション)しようとしていると論じる。有無をいわさずITがもたらしす結末だがそれを日本はどう冷静に受け止めるべきかを考えさせる好著である。入口は経済学だから難しいが、読みはじめると止らないわかりやすい本だ。1-2ページ毎の短文を基本に全12章にしているのが読みやすさである。以下は私のメモだがご参考までに。忙しい方は赤字の部分だけ拾い読みして下さい。

グローバリゼーション(世界化)p.47

「グローバリゼーション(世界化)の推進派であるアメリカ政府やウォール・ストリートの利害関係者、金融報道機関、IMF、世界銀行、ヨーロッパ諸国の財務省、そして多国籍企業は、こぞってグローバリゼーション以外には今後世界が進むべき道はないと、口を揃えて唱え続けた。彼らは、かつて共産主義国のたどった道を避けたいと思うならば、あらゆることを市場原理に任せることが人類に残された唯一の選択肢であり、またそうすべきだと主張してきた。さらに彼らは、長い目で見れば、その選択肢こそすべての人が豊かになれる道だと声を大にする。彼らが使う隠楡の中で最も有名なのは、「満潮はすべての舟を引き上げる」という言葉である。

日本はニュー・エコノミーでは遅れているのか p.66

 日本はインターネットや情報通信技術(IT)の発達で遅れをとっているとか、先を走っているとかいう論議が、日本の国内でも国外でも飛び交っている。しかし、アメリカに比べて、同じ速度で進んでいると見られることがめったにないのは、奇妙な話である。携帯電話がその例である。突如として、日本の街の至るところで、携帯電話に向かってしゃべりながら行き交う人が増えた。このように、日本ほど携帯電話がファッション化した国は、他のどこにも見当たらない。道端で携帯電話が売られている国も、日本以外にはない。日本の携帯電話は色彩豊かで、しかも多種多様な機能が付いている。実際、日本は携帯電話狂いになってしまったと言える。その煽りを受けた雑誌社や書籍出版社では、自分たちの懐に入るはずの多額のマネーが、NTTドコモの金庫に流れ込んでいると不満を漏らしている。'

アジアを支配するのは中国か日本か p.81

 アジアを支配するのはそれは日本である。中国が日本に取って代わると考えているアメリカ人や一部のヨーロッパ人は、正直に言えば愚かというより他ない。それは何よりも日本の経済力の大きさであり、中国を含めた東アジア、東南アジア諸国全体の経済の二倍以上に匹敵する事実を知れば、彼らも自らの判断を改めざるを得ないだろう。それは単に、日本経済の貿易規模やGDPの大きさの問題ではない。ここ四半世紀を通じても日本経済は時代が進むにつれて、西側諸国の経済に似通ってきたという共通認識は、西側世界日本を問わず大勢の人々の間にあるに違いない。国際経済の収斂理論と呼ばれるものがあるが私はそんなものを信じているわけではない。それとは逆に、国際経済における共通した趨勢として、さまざまな面で日本的方式に近い方向へと進化している例が見られる。だからこそ、日本人はグローバリゼーションとニュー・エコノミーにもっと注目し、その実態を知ってほしいと私は考えるのである。そうすれば、日本人が世界の人々に助言できることが、一つか二つは必ず思いつくと確信するからである。

恐るべき統計に驚いたエコノミストの反省も束の間だった p.103

 アジア金融危機からわれわれが得た教訓は、政治的変化によって打撃を受けた経済は、テクノクラート(専門技術者)の手に負える問題ではないということである。確かにテクノクラートは有能で、善意に満ちているかもしれない。だが、彼らは自分たちの責務を、均一なグローバル経済という究極的な目的を達成する視点でしか見ていない。金融危機は、専門レベルの危機ではなかった。それは世界にとって、経済的に何が可能で何が不可能なのか、また経済にとって何が望ましく何が望ましくないのかを捉え直す問題だったのである。

 もう一つの教訓は、経済に対する国家の権限が徐々に失われることが必ずしも良いことではない、という事実である。

グローバリゼーションはハイジャックである p.110 

 すでに明らかになったように、グローバリゼーションは基本的に二つのことを意味する。一つはアメリカ政府やウォール.ストリートの権力者を中心とする勢力が計画し、彼らが後押しする超国家組織が推進する政治的、ミッション、すなわち宗教の世界的伝道に似た使命であり、もう一つは、テクノロジ-の発達によって、地球を舞台としたあらゆる類の新しいビジネスが可能とした、強大なパワーである。「アジア危機はより優れた経済秩序を普及させる絶好のチャンスであるしというIMF(国際通貨基金)専務理事の数回にわたる発言によって・グローバリゼーションの持つ政治的ミッションが、紛れもなく明らかになったのである。  世界中の国々が、世界標準の「正しい慣習」を採用することが求められる。そしてその世界標準を決定するのは、IMFのような超国家的組織なのである。したがって、技術の発展から必然的に誕生したグローバリゼーションは、本来のストーリーがどこかでハイジャックされてしまったともいえる。

世界統一という古い理想を思い起こさせる p.111

 世界を一つの文明に統一しようという試みは、昔から存在する理想である。それを達成しようと試みた帝国もあったが、大陸の一部を超えて支配する手段を持つことは決してなかった。キリスト教国やイスラム教国にも、宗教を手段として世界統一を図ろうとする国が現れた。それらの試みは諸文化に大きな影響を与えた。ソ連は20世紀の大半を、一つの政治経済体制を普及させようと努め、世界統一を目指すことに費やした。そして再び、今度は経済組織を通して世界を統一するといった、古代の夢を実現しようという試みが出現したのである。

 それが一種の、分かりやすくいえば、ハイジャックであることは間違いない。しかしイスラム教やキリスト教の伝道や国際共産主義の場合と異なって、今回の試みは密かに忍び寄ってきたのである。人々が気づいた時は、すでにかなり進行していたのだ。しかもこの政治的意図によるプログラムを支持しない多くの(というよりほとんどの)人々は、いまだにグローバリゼーションの本質を理解していない。また、グローバリゼーションの推進派の多くも、自分たちが実際に何をやっているのかを本当は理解していないのである。

 国際エリートと呼ばれる層の人たちは確実に存在する。しかし、彼らは国際エリートという厳密な単位は構成するには至っていない。・・・どういうわけか、.国際エリートの集団には日本人は含まれていないのである。

 政治的ミッションとしてのグローバリゼーションは、何をさておいても、多国籍大企業と金融企業への利益を優先する。しかしそのことが、広く普及した一連の思想によって正当化されているのである。

ネオ・リベラリズム=市場原理主義は嘘である p.114

 ネオ・リベラリズムを信じるならば、市場の自己調整能力も信じなければならない。すなわち、市場が変な方向(自己崩壊)に進むのを防ぐのに、政府など外部機関の干渉を必要としないことを意味する。ネオ・リベラリズム的な考えでは、市場は人間の本性が、自然に無意識のうちに具現したものである。ネオ・リベラリスト(新自由主義者)は、外部からの干渉を排除して人間の本性に従って行動することが許されるならば、人類がすでに経験してきたような社会進化の結果として、市場が繁栄することが当然であると捉える傾向がある。

 このような信念はある程度、社会主義思想の失敗や、特にイギリスなどのような急進的な福祉国家の失敗に対する反動として生まれてきたと言えよう。確かに共産主義国の圧政的な経済計画とは対照的に、自由市場は人間の本性に近いように見える。冷戦の終焉によって、独裁主義体制の下での中央政府の経済統制が消滅するやいなや、旧共産圏の人々は解放感を味わい、あたかもあらかじめ遺伝子に組み込まれていたかのように、ロシアに限らずバルト三国でもグルジアでも熱心に商取引を開始する場面を、われわれはすでに何度も目撃している。

 .しかし、市場には自己調整能力があって、政府の監視を必要としないというネオ・リベラリストたちの楽観主義的な考えは、間違いなく過ちである。人類の経験に基づく証拠によれば、市場にはある種の規制が不可欠であることを示している。規制が不必要であるように見えたり、規制の働きがすぐに表れない光景をわれわれはしばしば見かけるが、安定した社会では市場の円滑な機能を可能にしている文化的拘束力があまりにもうまく組み込まれてしまっているので、人々がその存在に気づかないだけである。だからこそ、市場に自己調整機能があるという考えが、多くの人の心に愚かには響かないのである。まったく規制のない市場が経済的カオス(無秩序)に落ち込むことは、歴史が証明している。自由市場の実現は、ロマンチックな考えにすぎないのである。国内の自由市場が自己調整機能を発揮した例は、これまでに一度もなかった。常に適切な共同社会生活や政府による規制といった形で、社会的規制を受けてきた。国内市場でさえ一度も自己調整を果たした例がないにもかかわらず、国際市場でそれが可能であると考えるのは、まったくのナンセンスとしか言いようがないだろう。

アメリカの隠された野望が見えてくる p.146

 アメリカが貿易やサービスの自由化を異常なまでに説く理由を、われわれはもっと注意深く検討する必要がある。アメリカは世界の国々に対して、民主主義の普及にこと寄せて、資本を含めた貿易の自由化を迫ったのだった。国際的に使用されているアメリカの政治レトリックの中で、オープン・マーケット(開かれた市場)は長い間、民主主義という思想と結びついてきたというわけである。アメリカ政府は、この二つが絡み合っていて、その結びつきを切り離すことは不可能であるというイメージをつくり出した。共産主義を打倒して、世界を民主主義にとって安全な地域にするといった旧時代の使命感は、世界を巨大な自由市場にするという使命感に取って代わられたと言える。

 狂言的な行為を目撃したら、立ち止まって考えるべきである。そのことに気づいた瞬間、冷静な状況判断が要求される。政治的プログラムには、特に冷静な評価が要求されるのは、それが世界とそこに住むわれわれの生活環境を根底から変えてしまう可能性があるからである。グローバリゼーションという政治的プログラムは、先に詳細に論じたようにイデオロギーによって強化される。イデオロギーは、不条理を生み出す傾向がある。 

 ロシア経済はIMFの支援によって再建されたか p.169

 1944年にブレトン・ウッズで誕生した国際機関の内部から、強烈な批判が現れた。特に2000年初頭まで世界銀行の主任エコノミストであった、経済学者ジョセフ・ステイグリッツの批判は直接IMFに向けられたもので、強烈であった。彼は世界中に「間違った教訓」を学ぶことには注意すべきだと語った。東アジアは危機的状況から回復したというIMFの主張に反論して、ステイグリッツは、それらの国々はある時点になれば回復するのが当たり前で、IMFが誤った薬を投与しなければ、事態はそれほど悪化しなかったに違いないと人々に訴えている。こうした批判をしたことで、ステイグリッツは職を失なった。アメリカ政府の命令によって、2000年の初めに辞めさせられたのである。これが、グローバル・パワーの殿堂の中での事の顛末である。すなわち、内部にいる異端者を即座に沈黙させなければならないのは、正統派が挑戦を受けないためである。そういうわけで、世界はなお危険になっている。

 巨大企業と国家の衝突 p.176

 アメリカ史上最も有名なアブラハム・リンカーン大統領は、亡くなる直前まで企業のことを案じていた。リンカーンは、企業は「祀り上げられてしまった」と語り、そのうち企業経営者の腐敗の時代が来るに違いないと予言した。リンカーンは、人々に偏見を植えづけることで、富裕家は支配力の永続化を試みるだろうと考えたのである。そのような傾向は、少数の人々の手中に富が集中するまで続き、そうなれば共和国の崩壊が待ち構えていると、リンカーンは危倶した。今の時代のアメリカの大統領が、このように大胆に、しかも公共の場で発言するのを想像することは困難である。1950年代に「軍産複合体」の潜在的脅威を訴えたアイゼンハワー大統領の発言以来、企業経営者に疑惑の念を抱かせないことを代々の大統領は保証してきた。今日のアメリカ大統領選挙では、企業の利権を代表する候補者しか勝利者になれない、というのが通説である。アメリカでは、企業と国家は共に発展してきた。互いの運命に関連し合い、企業と国家は相互依存関係にあった。だが政府と大企業は対立することも多かった。こうした関係には、時には争いに発展する潜在的緊張が存在することは明らかである。リンカーン大統領の言葉に表れているとおり、アメリカ政府は、大企業の活動に対してかなり批判的になることが頻繁にあった。かつてアメリカ人の間に、企業に対する猜疑心が広く浸透していた時代があるが、それはイギリス国王が植民地を搾取する道具として王室による勅許の会社を利用した時代にまでさかのぼる。しかし、王室勅許も長くは続かず、アメリカ人がイギリスに対して独立の反乱ののろしを上げた時、それは企業への反乱であったとも言える。アメリカ史の初期における企業の処遇の仕方を見れば、アメリカ国民の企業に対する猜疑心が根強くあったことが明瞭に分かる。

アメリカはまだ反トラスト法が生きている  p.180

 ここで日本が関わってくる。アメリカの反トラスト法が片隅に追いやられていた主な原因は、1980年代の日本の工業力が、アメリカの工業にとって脅威と映ったからである。日本の企業、法律、政治は、西側諸国とまったく異なった歴史を持っている。しかし21世紀が始まろうとしている今日、日本、アメリカ、ヨーロッパの巨大企業は多くの点で似通ってきている。その中で最も重要なことは、すべての巨大企業が程度の差はあれ政治力を買収できるという点である。日本社会では、そうした慣習はかなり以前から受け入れられてきた。しかも、大企業が一般国民の生活様式や国家政策を決定しているといった事実に関して、公開の場ではほとんど議論が行われていない。EU(ヨーロッパ連合)では、企業の権力が短期間に強大になり過ぎたことについて、やっと論議が始まったばかりである。先進国の未熟練労働者は、遠く離れた地域の安い労働者に取って代わられている。

国家以上に巨大な企業が存在する  p.182

  企業の売上高と国民国家のGDP(国内総生産)を比較すれば、企業がどれほど巨大な存在であるかが分かる。三菱商事と三井物産は、スウェーデンより若干小さいが、世界で四番目に人口の多いインドネシアよりも大きい。伊藤忠、住友商事、丸紅、GMはいずれも、デンマークやタイより大きい。日本のNTTとアメリカのAT&Tの売上高は、イスラエルやギリシア、マレーシアのGDPより大きい。東芝とフィリップはアイルランドより大きく、ソニーでさえ、エジプトよりもかなり大きいのである。世界の大企業200社の総売上高は、トップ9カ国を除く、すべての国のGDPの総額よりも大きい。しかも年月を追って、この比率は大きくなっているのである。

国家衰退論とともに企業衰退論が出現した p.184

 日本の場合、問題はそれほど複雑ではない。政府と企業は常に密接に関係し、相互依存してきたように見える。徳川時代、商人は表向きには社会階級の底辺に位置づけられていた。だが実際は、権力者や地方の武士がカネに困窮していたことで、彼らは特権的な地位を許されていたのである。日本の産業の歴史で最も興味深いのは、西側諸国の産業と比べると、政治権力から独立したことが一度もなければ、政治的現状に挑戦したこともないことである。日本では、政治権力者と裕福な商人と工人は、互いに棲み分けたのだった。17、18世紀のヨーロッパの産業が自分の手で政治的権力を獲得し、都市の政治秩序を変えることに手を貸したのに対し、日本の産業は政治的に消極的であった。日本の商人ギルドはその存在を許され、独占体制を築くほどまでに利権を獲得した。しかしヨーロッパの商人ギルドとは異なって、法的に保護されなかった。したがって権力のヒエラルキー(階層秩序)から解放されず、権力に対抗する勢力を形成することができなかった。権力者による社会・経済秩序の維持に協力する以外に術がなく、ついに政治的現状を脅かすような活動はできなかった。こうした基本的な体制は、明治時代にも生き残った。やがて工業化政策によって多くの企業が登場した時、企業は権力者によって設立され、友人や仲間に譲渡されたのだった。その頃、武家の娘たちはすでに商人の息子たちに嫁いで、混成された階級が生まれていた。明治時代の偉大な改革者たちは新しい工業国を、所有権、私有財産、契約といった伝統的な市民法の思想の上に築いたのではなかった。日本にはそのような伝統は存在せず、彼らは関心さえ示さなかった。権力構造の中枢とは独立した、支配力を供給する契約思想を発展させることはなかったのである。

巨大怪物国際投資協定MAI p.193

 1999年にシアトルやワシントンに集結した、グローバリゼーションに抗議する入たちの最も具体的な対象となったのが、多国間投資協定(MAI)である。これは大きな論争の的となる国際条約である。なぜならば、もしこの条約が締結されたならば、超国家企業は、全世界の政府と比較して、今よりもはるかに大きな権力を手に入れることになるからである。グローバリゼーションが世界中の大勢の人々に本当に利益をもたらすのか、それとも過去四半世紀のグローバルな経済統合が引き起こした問題をさらに悪化させるのか、といった議論の出発点がMAIだったのである。この国際協定案の背後には、ある意図が隠されていることは疑う余地がない。それはグローバリゼーションのプロセスを円滑にするための、文字どおり政治的意図なのだ。この協定の実現を目指して交渉している人たちは、現存する国際協定が保証している条項とは比べものにならないほど、ビジネスにとって有利なルールを設定しようとしているのである。新しいルールは、近年冬くの国々ですでに実現した自由化を固定させ、永久化しようとするものである。MAlのルールは、投資家が外国での活動に関して外国政府と意見が対立した場合、投資家を保護し、その国の市場に自由にアクセスする権利を彼らに与えるものである。要するに、MAIは政府と大企業との関係を変え、世界征服を目論む協定なのである。

日本のグローバリゼーションp.200  

 日本はアメリカに次いで世界第二の経済大国である。10年前のことをまだ記憶しているだろうか。経済学者や評論家が世界中の新聞紙上で、日本は西暦上2000年までにアメリカを抜いて、世界第一の工業大国になる可能性がある、と真剣に議論を交わしたのだ。彼らの予測は外れはしたが、日本が世界における経済大国である事実は、今も変わりはない。  それだけの経済力があるならば、いわゆる「エイジアン・タイガー」経済ほど、まったく予測もつかないような、グローバル化勢力の損害を日本は受けることはないであろう。これらのアジア諸国の経済力は、中国の経済力を加えたとしても、日本の経済力の半分にも満たないのだ。日本が発展途上国のようなグローバリゼーションの衝撃を受けないのは当然のことである。

日本の産業政策を支える業界団体という巨大組織  p.206

  日本の「信用の秩序づけ」がうまく機能するのは、政治経済全体の構成の仕方によるところが大きい。日本には大企業を結びつける、二つの横断的組織網がある。一つは、有名な系列であり、もう一つは、各産業分野における業界団体である。これら二つの組織構造によって、日本の政治経済の秩序が保たれている。二つの組織がうまく噛み合うことで、日本の製造業者は、世界中のどの製造業者よりも優位に立つことができる。系列は、いわばセーフティネットの役割を果たすからである。系列のおかげで、企業は短期の利潤を追求することなく、興業種分野に進出することが可能となる。日本の系列企業は多くの場合、大きな利潤をあけずに、10年以上も拡張計画を遂行することができた。それは常に系列銀行が支援し、他の系列会社からも資金援助してもらったからである。-.」し産業構造を横断する業界団体は、同じ分野で事業活動を行う企業によって組織されている。

産業界ネットワークはグローバリゼーションの利点  p.210

 日本は不況から抜け出そうといろいろ政策を試みるが、ことごとく失敗している。日本全国に蔓延する憂鬱な空気をつくり出しているこうした状況を防ぐためにも、日本はもっと早く手を打つべきであった。それは生産者重視から消費者重視への政策の転換である。日本の国内市場も巨大ではあるが、日本の産業が抱える生産設備はもっと大きい。日本は輸出に依存しすぎる。輸出は毎年神びているにもかかわらず、過剰設備の問題は一向に解決される見通しが立っていないのが現状である。日本の消費者市場が、適切な手当てがなされなかったせいである。このような生産システムは、日本の消費者の負担によって支えられてきた。消費者は、日本の生産能力の利益をほとんど享受していないのである。  次の話は、外国人の間では、前々からよく知られていた事実である。すでに1960年代から70年代にかけて、「外国人の間で東京で暮らすのは素晴らしいというジョークが飛び交っていた。東京で暮らした経験があれば、世界中どこへ行ったとしても、物価がかなり安く感じるい、という理由からである。もちろん東京よりも特定のモノの値段の高い国はあるだろう。しかしそれは人為的であり、規模の小さなものである。全体的に見て、日本の消費者物価は異常だと言ってもよい。それは商品の価格が上乗せされているからである。   日本には生産者と小売業者との非公式な協定によって、高い価格設定の維持を可能にするシステムがある。

日本のアメリカに対する服従の関係 216-217

 日米間の奇妙な相互依存関係と戦後日本の工業生産による成長政策の結果、今日の日本国民はグローバル世界において、アメリカのポジションを大きく支えている。過去数年間にわたって、アメリカは景気づいているが、アメリカ経済を研究した人ならば誰しも、それが借金の上に成り立っていることを理解している。アメリカで生まれている新しい仕事や生産性の向上は、製造業とはほとんど関係がない。ニュー・エコノミーの大部分が、高い株価によって支えられているのである。その株価も、実際の生産よりも希望や期待を反映したものにすぎない。しかもすでに多額の資金が投資されている。アメリカの銀行には莫大な資金があるはずだといっても、それはどこからか流れてきたものである。ではその資金源はどこであろうか。おそらく日本である。  日本は輸出国として世界的に有名になった。過去数十年間で、日本の輸出業者は巨万の富を築いた。しかし、そこで一つの大きな問題に直面した。日本の輸出業者が稼いだマネーは、主としてドルだったため、国内で生産にかかる費用、たとえば社員の給料を支払うために稼いだドルを円に両替すると、その行為がドルに対して円の価値を押し上げる圧力となった。ここ20年の間、円高であったことは記憶していることだろう。円高になれば、製品を輸出したとしても、輸出業者は利益を確保するのが困難である。実際、輸出のたびに損失を出す時期もあった。そのような状況は長期的に維持することは不可能で、円とドルの関係を比較的安定的に保とうとする政策協調が、過去数年間行われている。円が急騰しそうな気配が見えると、当局は直ちに円の引下げを狙って市場介入する。しかしこのような状況は、.大量にドルを抱え込んでいる日本企業が、ドルを日本に持ち帰って円に交換できないことを意味する。それゆえに、日本企業が輸出によって稼いだドルは、アメリカの銀行にとどまらざるを得ないのである。アメリカにとどまる日本のドルの総額がどれほどなのか、誰も知らない。だが、信じがたいほどの巨額であることは確かである。さらに、それはある特定の国に、特定の目的で存在する金額としては、最大の額であると言っても差しつかえない。アメリカの銀行に預けてある、この日本人が所有するドルこそが、今日のアメリカ経済の輝かしい好景気を支えている唯一の重要な要因である。  ここで指摘じたいことは、グローバリゼーションの気まぐれな影響から保護されている日本の産業力は、結局は、アメリカの利益に奉仕させられていることになるという事実である。日本はまるでアメリカの植民地のような関係にある。しかしそれは、アメリカが望んだ結果だとも断言できない。15年前に日本政府が政策の調整をしていれば、日本の大きな工業力で稼いだ利益を日本の消費者に還元できたはずなのに、それを怠ったからである。言い換えれば、日本が今後のグローバリゼーションの時代に採るべき方向性を決めるには、これまでの政策の全面的見直しが必要とされているのである。従来の政策の見直しは、さまざまな論争を引き起こすだろう。なぜならば、日本の現状が長い間続いてきたことは、日本の政治経済内部の権力と結びついているからである。特に自分の立場が脅かされないかぎり従来のやり方を変えようとしない有能な官僚組織と関係しているから、厄介である。

冷戦が日米関係に転機をもたらした p.225    

  日本の金融機関は、円とドルの為替レートの変動で最終的には損をすることを知りながら、アメリカの政府債務に投資をしていたのである。したがって、日本の経済機関や政府経済官僚は、利益のためではなく、純粋に政治的理由でアメリカ合衆国を経済的に支えてきたと言えよう。この点において、日本とワシントンの関係は、冷戦時代のアメリカとヨーロッパの同盟関係とはまったく異なるのである。しかし日本がアメリカ経済を支えているのは、『財務省証券を通してのみではない。近年、日本企業がアメリカの銀行に預けてあるドルの持ち高の方がこれ以上に重要な意味を持っている。

 

資本主義は変わりアメリカも変身した p.240-241

  規制をまったく受けないといった点で、この修正版のアングロ・アメリカン資本主義は、労働組合が登場する以前にさかのぼって、搾取型資本主義と言われたその初期の頃の評判を想い起こさせる。しかし修正版アングロナメリカン資本主義は、搾取型資本主義とは比べものにならないほど巨大なスケールで組織されている。しかもこの資本主義の擁護者やロビイストは、全人類の利益のために奉仕するといった、初期の頃の資本主義よりも大きな課題に挑んでいると主張する。新しい種類の競争や、合併と買収合戦で生じる新しい危険性や機会、そして何よりもグローバル勢力に対抗するには、これまでにはなかった身軽さやしたたかさも必要だと説く。今や「ザ.マーケット」は、打ち倒すべき野獣なのである

 

経済が成長すれば、不平等が消滅すると信じてはならない  p.253

 経済が成長すれば、不平等が消滅すると信じてはならない。経済成長率が上昇したとしても、われわれが直面している問題の解決にはならないのだ。統計がそれを証明している。1960年から90年にかけて、世界の貿易や投資がかなり増えた時期があったが、地球上における不平等は、逆に悪化した。60年、世界の人口のトップ20%の富裕層と最も貧しい人口20%の比率は1対30であったが、90年にはそれが1対60と倍増したのである。

知的所有権をめぐる大騒動  p.259

 グローバル化が進展する過程で、アメリカの支配が顕著な現象として表面化しているものの一つに、「知的所有権」をめぐる国際的騒動がある。アメリカ政府には知的所有権について、諸外国の合意を取り付けたいという思惑がある。しかし、有力な大企業や超国家企業が近年、アメリカの法律を拡大解釈して、さまざまなものの一般的な利用を特許で制限するような拡大解釈を図ったり、知的所有権の内容に関して規定したりしていることには問題がある。特許申請件数は、毎年記録を更新するほどのすごい勢いで伸びている。かつて特許は、機械装置や化学的処理など、つまり人が手で触ることのできるものに限定されていた。しかし今では、人間の頭の中にあるものや大昔からすでに存在してきたものでも特許が認められるようになった。たとえば、製薬会社は、インドや他の古代文明社会で何千年間にもわたって使われてきた薬や治療法に関して、それを「権利」にして蓄積している。インドの人たちが、声を大にして抗議したことは言うまでもない。あるイギリス人の女性が、目分について特許を申請した。これまで懸命になって今日の自分をつくり上げだというのが、その理由である。これはジョークと抗議の入り混じったものであるが、最近の「知的所有権」に関する傾向からすれば、このような行動もあながちばかげた話とは言えなくなってきた。

エンターティメント産業の成長にどんな意味があるのか p. 273-274

 こうした環境を見渡すと、歴史上最も有名な政治的格言が思い浮かぶ。「国民にパンとサーカスを与えよ。されば彼らは幸福であろう」という格言である。この政治的洞察は、古代ローマ時代の風刺詩人、ユベナリスの手によって明確に説かれた。ローマ帝国のサーカスにあたるのは、今日ではさしずめコンピューター・ゲームであり、どこにでもあるエンタテインメントであり、まったく不要なたくさんの物を買わせようと誘惑し続ける広告である。もちろんパンは、生存するのに最低限必要な物である。株式市場でのギャンブルが、アメリカでは平均所得が低下しているにもかかわらず、あたかもエンタテインメントのごとく推奨されている。家庭にはディジタル玩具やコンピューターによるショッピングが、悪化する雇用保障とヘルスケアの代償として提供されているのである。

株主資本主義の未来に何が期待できるか p.276

 いわゆる株主資本主義の未来がおそらくグローバリゼーションの行方を決めるに違いないと思われるが、それには十分な理由がある。株主中心の資本主義は、何よりもそれぞれの企業が株式市場でどう評価されるかに関心が注がれる。したがって、それは本質的に不安定である。それはカジノに通じると言える。正常な配当と正常な利潤がもはや会社の評価を判断する基準ではない。今や企業が従来どおりうまくやっているというのでは、株主をその企業だけにつなぎ留めておくことはできない。専門の株式投資家は、もっぱら最高のリターンが得られる株を追い求める。もし株主に忠実であるという印象を維持できなければ、企業はその株式の評価で自動的に不振を味わう。それはとりもなおさず、企業が長期的投資ができなくなることを意味する。企業にとってコストの削減が共通の処方箋となっているのは、株式市場がそれに反応するからである。そうしたことが、企業の長期的な成功を大きく阻害する例もよく見られる。誰もが学習すべきことは、企業同士の合併やダウンサイジングなどの報道や、投資家仲間を動かす劇的な動きに株式市場が熱狂的に反応するということである。株主資本主義とは、呆れたビジネスになったものである。そこで次の疑問が生まれる。つまり、資本主義はどこへ向かおうとしているのか。資本主義は、これまでも常に不安定なシステムであり、矛盾を孕んでいた。そしてグローバリゼーションという新しい時代を迎えて、これまでも多々見られた資本主義につきまとうあらゆる矛盾が恐ろしいほどに噴出してきたのである。

日本の素晴らしい役割に期待を込めて  p.280

  経済学者や国際経済機関の用意する処方筆に従わなくても、工業国として成功できるという世界でもきわめて貴重な例なのである。日本はこれまで、外国の例で役に立ちそうな市場というものを実にうまく取り入れるといった、非凡な才能を発揮してきた。日本はその点で世界に知られているのである。日本の政治指導者はまた、市場というものを経済秩序として異質の目的を達成するために活用することを、数多く経験してきた。たとえば、市場が事業や産業構造の再編成のために自由化されたり、時として他の目的を達成するために規制されたりした。今や、日本はこのような経験を公表し、世界に対して何が可能なのかを示すべき時である。「ザ・マーケット」が、世界に秩序をもたらすはずがないことを、日本が声を大にして訴えるならば、絶大な効果があるに違いない"これまで日本は外国に対して、間接的な方法で関心を呼び起こす役割しか演じてこなかった。おそらく今こそ、日本がより直接的な形で、世界に感銘を与える時期に来ている。国際的には、アメリカとの交渉となれば日本は他のどの国よりも強い立場にある。その影響力を近未来において行使しない手はない。日本はグローバリゼーションに伴って進行する破滅的なトレンドを転換させるのに大きな役割を果たすことができる。日本にとって失うものは何もなく、得るものは大きい。

 素晴らしいインターネットの世界 p.282

 これまで多くの人が、インターネットを政治に利用できないかと議論したり、夢を見てきた。社会や世界を変えようと活動している集団は、インターネットで互いの存在を短時間で探し当てることができる。インターネットを利用すれば、他のどんな手段よりも簡単に宣伝できる。テレビやラジオ放送に比べると「ウエブ・キャスティング」、つまりインターネット放送の費用は、雀の涙ほどで済むのである。あと数年もすれば、ウエブ・キャスティングはテレビ放送に近づくだろう。そうした点で、インターネットは地域の利益やアイデンティティを共有できると感じる人々との連絡用としても、非常に重要である"これは一種のパラドックスである。一般的に、グローバリゼーションを連想させるものが、地域化を促進するのに役立つのである。つまり、国家や民族、宗教に根差した政治化を促進するのである。皮肉なことに、このような集団のほとんどは、グローバル・システムに反対の立場を強く主張している。

 素晴らしいインターネットの世界(続) p.285

  日本の先端テクノロジーやコンピューター、電機通信関連機器の製造能力を考えた場合・インターネットの利用において日本が外国と比べて非常に遅れているという事実には、驚かされるばかりである。数字がその事実を物語っている。日本経済は世界のGDP(国内総生産)の一五%を占めているが、日本国内における電子商取引は、GDP全体のわずか五・四%である。アメリカ企業では重役の65%がビジネスにインターネットを利用し、西側の主要国では30%であるのに対し、日本では会社役員の15%しかインターネットの利用経験がないのである。しこのような状況を説明しようとする試みは、いくつか存在する。最も一般的なものは、NTTの独占権である。これは大きな要因である。NTTの接続料金は高すぎる。2000年4月時点で、アメリカの4.5倍である。その後、接続料金の引下げ方針が決まったが、2002年になってもその差はあまり縮まらないだろう。そのアクセス・コストもまた高すぎる。アメリカの2倍、テクノロジー型経済の韓国の4倍である。日本は電子商取引の分野でも、他国を追い上げてはきているが、その安全性を懸念して、まだ抑制力が働いている。

ハベル大統領によるクローバリセーションヘの警告 p.290

  グローバリゼーションの政治的戦略プログラムにおいて重要な役割を演じてきた国際機関は、最近不意をつかれ、もはや洞察力のある人々は、容易に自分たちを信用しなくなったのではないかと不安に駆られ始めている。2000年9月末にプラハで国際機関が年次総会で顔を合わせた際に、その一端がうかがえた。チェコ共和国のバクラフ・ハベル大統領は、IMF(国際通貨基金)や世界銀行の当局者たちに対して、彼らが実施した処方箋や命令、活動がもたらした結果について、もっと自覚すべきだと語ったのだった。最も豊かな先進工業国が世界の発展の方向性を指示してきたのだから、当然のことに彼らが、その影響に対して責任を負うべきであると主張した。一ハベル大統領は、豊かな国々は経済政策にのみ関心を向けるものであってはならないという、より重要な点を指摘した。われわれに残されている文明を基盤とする価値体系もまた、再構築しなければならない。今日、富の蓄積が進歩の唯一の基準となっている。しかしこの定義は受け入れるべきではない。自由闘士で、作家としても著名なチェコ大統領の指摘は、多くの人が口に出さなくても、社会のあらゆる階層にわたる人々が抱いている懸念を、鏡のように映し出した。ビジネス投資家に対する報酬によってのみ人類すべての仕事が評価されるということが、世界文明の原則であるはずはないのである。

 アメリカ合衆国は大企業に乗っ取られたのか p.294

 すでに明らかになったように、ニュー・エコノミーとグローバリゼーションは、そのほとんどが、巨大企業のストーリーである。それはまずアメリカで輪郭を現した。世界最大の工業国であり、グローバリゼーションという言葉に含まれる出来事のほとんどを主導するアメリカの政治史において、大企業は今、おそらく最大の権力を手に入れたことであろう。大統領選挙戦がこの事実を証明していることは明らかである。それは、アル・ゴアとジョージ・ブッシュの二人の主要大統領候補の発言内容ではなく、むしろ二人がそのことに言及するのをうまく避けていることに表れている。アメリカで選挙に立候補する場合、通常、有権者の最も関心の高い問題を探り出して、そのことを訴える。しかし今回は、政治家に議論してほしいと有権者が願っている問題点は、世論調査を含めた多くの調査でも明らかになったが、民主党と共和党の両候補とも巧みに外らしているのである。アメリカ経済は順調であると認識されている一方で、アメリカ人のほぼすべてが、健康保険に加入していない人たちのことを心配している。全国共通の健康保険制度を確立することが、クリントン政権の初期の政治的目標であったが、産業界からの圧力に屈して諦めてしまった。]

 フランスと日本が抵抗を示すグローバリゼーション  p.304

 マフランスだけが他の西側諸国の例に倣っていないようである。フランスの反対勢力の政治は死んでいない。現在ストライキは起こるし、より巨大な国際的な展開が国家の経済的福祉に影響を及ぼすような場合、それは正当化される。フランス人はヨーロッパの大きな国々の中でも、「アメリカ流のやり方」には最も懐疑的な国民である。フランス政府は国内映画産業を保護するために、アメリカ政府を相手に長い間闘ってきたが、それは大量生産によって安く供給されるハリウッド映画にフランスのテレビが席巻されることに深刻な脅威を感じたからであった。フランスのグローバリゼーションをめぐる論争は、すでに一人の国民的英雄を誕生させた。彼はミヨウと呼ばれる小さな町の農夫だが、フランスでビジネス展開している800店舗のマクドナルドの店舗を襲った罪で1999年に監獄に入った。彼の行為は、ロクフォール・チーズなどのフランス製品に対する、アメリカ政府による経済制裁への抗議であった。アメリカ政府は、EU(ヨーロッパ連合)がホルモン入りの餌を食べて育ったアメリカ産の牛肉の輸入を拒否したことに対して、EU製品に報復関税をかけたのである。47歳の農夫は、ヨーロッパ中で有名になった上に、広く尊敬を集めている。彼は過激な「農民同盟」に所属しているが、この同盟は農業市場をむりやりこじ開けることは農家にとってだけでなく、美味な食物を楽しんだりする優雅なライフスタイルを追求する人々にとっても脅威であると考えているのである。

 2000年末、混乱する日本のニュー・エコノミー論争   p.312

 「平均して日本人は、アメリカ人よりも高い商品を買わされているが、その代わりに、彼らは良いサービスを受けている。しかも日本人はそのサービスに通常、信頼を置くことができる。西側諸国の場合、ニュー・エコノミーが定着した多くの業種では、企業は証券市場で自社の株がどう評価されているかをはるかに恐がっており、不満を持つ顧客はそれほど恐くないのである。グローバリゼーションとニュー・エコノミーの時代には、消費者が巨大企業に恐怖を与えることが可能であるかぎり、普通の人々には希望がある。その点で、日本人は今後も産業界に、礼節こそ最良の広告であることを忘れさせないように言い続けてほしいものである。」         

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