現代人にとって茶臼とは
永禄四年八月、千曲川の対岸、妻女山(さいじょさん)にこもる上杉謙信との決戦を前にした武田信玄は、一萬八千余の軍勢をひきいて茶臼山に布陣した。現在の国鉄・中央線篠の井駅の北西、約三キロ、駅から望むことができる。また天正三年五月、織田、徳川の連合軍は戦国最強とうたわれた武田の騎馬隊を、設楽原に大破した。この長篠の戦で信長が本陣をおいたのも茶臼山だった。大阪冬の陣で家康の本陣となったのもまた、現在の大阪市天王寺区茶臼山町にある茶臼山古墳であった。
このほかにも、戦国時代には茶臼山に布陣した話がたくさん出てくる。おもしろいことに、これらの茶臼山はいずれも共通した特徴をもっている。頂上が平らで、富士山のような形だ。篠の井の茶臼山は、現在では頂上が平らでないが、地元の人に聞くところによると、これは近年、土砂崩れにより山容が変わっしたためで、昔は平らだったらしい。陣を布くには確かにこういう形の山が都合がよい。ではどうしてこういう形の山を茶臼山と名づけたのであろうか。 これは、戦国武将たちの間で茶の湯が大流行していたことと、深いつながりがある。茶の湯は地位の象徴であった。五山の僧にはじまり、足利将軍から、高級武将たちへとひろがったのである。ところで、抹茶は今でこそ、缶入りの製品が出回っているから、これを直ちに点てればよい。インスタントコーヒー並みである。考古学者の森浩一教授は「そうだったのか、それは知らなんだ。なるほどなあ」と言われたものだ。
しかし、昔は茶臼という特別の石臼で、碾茶という、これも特製の茶を挽石臼で挽くところから茶の湯ははじまった。布陣すれぱまず一服、まっさきに茶臼がすえられた。陣を布く、茶臼で挽く、布くと引くがかかって、敵を(茶を)粉々に粉砕するに通じたのである。「茶臼は引かでは落ち申さず、一先引候へば、げ敵は粉になし可申候へぱ、実(げ)にも実にもとて云々」と古文書に書いてある。茶臼に布をかぶせた姿こそ、まさに茶臼山の形なのである。富士山の形だ。しかし、現在では茶道具から茶臼は姿を消して、茶人と自称する人でも、茶臼を知らぬことが多くなった。骨董屋も茶臼は中々手に入らないという。私は京都の骨董屋に特別頼んで、何組か手に入れた。しかしそのおままでは、磨り減っていて使い物にならなかった。そこで茶臼師に目立の仕方を習ったが、今は亡き人、いまこの技を伝えている人はいない。誰か引き継いで呉れる人はいないだろうか。
コーヒーは、手挽きに限るように、茶臼で挽いた抹茶の味を一度覚えると、缶入りの既製品など口にはできなくなる。私は研究室に茶臼を置いて、お客様に出すことにしていた。いろいろ講釈をのべながら、挽いている間の会話がなんとも楽しい。外人さんは、東洋の神秘(mistery
of Orient)に触れたと感激したものである。
茶臼は意外なことに、現代の学生たちも、大いに興味をもつ。彼らにとって、それは未知の世界であり、現代生活のどこへ行っても見ることのでき古い日本の文化に接した感激にひたるようである。茶臼を挽くときには、まず心を静めてかからないと、うまく挽けない。ストレスや騒音の多い現代人が茶臼を挽くことによって得られる効能を再認識してよいのではないかと私は思う。戦国の武将も同じ気持で、茶臼山に茶臼をすえたのであろう。
(同志社大学名誉教授・粉体工学)