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茶臼の魅力
私は大学で一般教養科目の「日本の自然と生活文化」を担当していた。全学部対象の総合科目なので受講者が多く、大教室なのが悩みの種であった。大教室で講義するだけではつまらないから、時間外に少人数で何かをやる催しものが十数回付属していた。京都はそんな材料にこと欠かない。たとえば江戸時代に将軍様に献上する新茶を運ぶ華やかな行列があった。それを復元した行事に参加し、江戸時代の装東で市中を行進する。普段は授業に出ているだけでお互いに顔見知りになるチャンスもない学生たちだが、こういう賑々しい催しものに参加すると、不思議な連帯感が生まれて楽しい。「このお茶壷には、碾茶(てんちゃ)という特別なお茶が入っていたんだ。江戸城に着くと、この碾茶を茶磨(ちゃうす)で挽いてお抹茶をつくり、将軍様のお茶会が開かれたんだと、お茶壺道中の絵巻を見せて説明する。
それを聞いた学生たちは「碾茶ってなあに?」「茶磨ってどんなもの?」と次々に疑問が湧くから、次は私の研究室で江戸城茶会の復元をやる。茶の湯と聞くと学生たちは尻込みする。行儀作法が気になるらしいのである。ところが私の茶会は「無裏表千家流」と称し、立ち飲みだから、作法の出番がない。そのかわり、自分で碾茶を茶磨で挽いて、抹茶をつくるところからはじまる。「へえー、これが抹茶の素になる碾茶だって、はじめて見た」「先生が挽くと、むくむくと,美しい抹茶が出てくるのに、僕が挽くと、ちっとも出ない。何か秘密のこつがあるんだな」などと、ワィワイガヤガヤ.なんともあきれた茶会だが、これは江戸城でも将軍様の奥座敷などではなく、厨房(ちゅうぼう)で展開された茶坊主たちの隠れ茶会の復元なのである。
「お抹茶は苦がーいもの」だとばかり思っていたけれど、おいしいんですね」と、どの学生もいう。京都のお寺などで観光客に出しているお抹茶が印象に残っているらしい。そう言えば私もある日都踊りの会場でそんな凄いお抹茶を頂いた本当に苦い経験がある。私は急いで蛇口へ駆けつけたが、外人さんも交えた観光客の皆さんは、神妙な顔つきだった。裸の王様を讃えるお話に似た「にがーい」思い出である。抹茶は微粉末だから、空気に触れるとすぐに酸化して味が落ちる。缶入り抹茶は酸素を抜いて長持ちさせているが、封を切れば直ちに酸化が始まる。挽きたてが美味しいのは当然のことである。私はこの魅力にとりつかれて、今でもそれを実践している。
茶磨師という専門職人が絶滅した今日、手挽きの茶磨で楽しむためには、その技術を復活させることが必要だった。幸い私はセラミックスの加工技術に関する仕事につながりがあったので、石材を加工して茶磨を作ることも可能になり、宇治のお茶屋さんの協力を得て、思いがけない贅沢にありつくことが出来たのである。
ところで日本でも、韓国・新安沖の海底から引き揚げられた中世の宝船が話題を呼んだことがあった。だが青磁や白磁のほかに、茶磨も何個か発見されたことは意外に知られていない。東福寺と書かれた木簡が発見されたり鎌倉の称名寺の青磁と同じ遺物が見つかっている。当時東福寺でも称名寺でも茶磨が導入されていることとのつながりも重要な手がかりかも知れない。
サンケイ新聞昭和58(昭33)11.05に増補
(同志社大学名誉教授)
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